なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(123、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(123、復刻版)」を掲載します。


     黙想と祈りの夕べ(通信123[3-18]2002・2・ 3 発行)復刻版

 この日のローズンゲンの主日聖書箇所の一つはマタイによる福音書20章1-16節でした。イエスの日雇い動労者の譬えです。この譬えを読むたびに、ぶどう園で朝から一日中働いた労働者と、夕方雇われて数時間しか働かなかった労働者が、同じ一日の賃金をもらったことに対する、朝から働いた労働者から出た不平は当然のように思われます。それぞれの労働者が働いた時間によって、その賃金が支払われるのが今日の社会の常識です。ですから、明らかに労働時間においては違いがあるにもかかわらず、朝から働いた者にも夕方から働いた者にも同じ一日の賃金が支払われたということは、社会的には非常識です。けれども、この社会の常識からすれば、はなはだ非常識にもかかわらず、夕方からしか働けなかった労働者には、朝から働いた労働者と同じ一日の賃金をもらえたわけですから、もしその労働者に家族があったとしたら、その日は夕食もみんなで食べることができたでしょう。もちろん朝から働いた労働者も同じだったでしょう。この譬えで、ぶどう園の主人が監督に命じて、みんなに一日分の賃金を支払わせたのは、そのような一人一人の労働者とその家族への配慮から出たように思われます。その労働者の労働時間というよりも、それぞれの労働者とその家族がその日一日生きるに必要な賃金を、たとえ労働時間はそれぞれ違っていても、みんな同じように支払ってやりたいのだ、というぶどう園の主人の思いなのでしょう。私は、この譬えを読むたびに、不平をいった労働者の視点か、ぶどう園の主人の視点か、どちらの視点を自分の中で大切に生きるのかが問われているように思えてなりません。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のように発言しました。
 今朝礼拝堂に入ったらKさんが、長年飼っていた犬が亡くなったと言われた。自分は、昨年のクリスマスに3年半程前に名古屋から預かっていた犬が亡くなって、正直ホットしたので、Kさんにも「ホットしたでしょう」と声をかけたら、Kさんは怪訝な顔をされて、「さびしくなったわよ」と言われた。私には、クリスマスに亡くなった預かった犬の他に,先住の犬一匹と猫三匹がいて、今も元気でいる。Kさんはの方は、大事にしていた犬を最後の頃には点滴までして世話をして亡くしたのだから、自分の場合とは同じように一匹の犬を亡くしても、感じ方が大分違うのだと思う。それを自分は相手の気持ちを慮る前に、自分の感覚を相手に押し付けてしまった。犬のことだけでなく、このようなことを自分はいろいろなことでしていて、相手を傷つけていることがあるのではないかと、反省させられた。相手の思いを受け止めて,共振することの難しさを、改めて感じさせられた。いろいろな悲しみや苦しみを経験している方へ、同じ経験をしなければ、その人の気持ちは分らないと思うので、声をかけられずに、ただ祈っていますとしか言えないことが多いが、そのような方々と共振しながら歩んでいけたらと思わされた。
  
 また、別の一人の兄弟は、自分の近況を話してくれた。年末年始は両親のいる弘前へ帰省して来た。大晦日、元旦には雪が沢山降った。両親の牧会する弘前の教会では元旦礼拝があるので、元旦の朝は、礼拝の前に雪かきをした。軒のツララが落ちてきたりすると、危ないので(雪国の教会の冬は厳しい)。自分は去年のクリスマスに教会を転会して、住居の近くの教会に籍を移した。小さな教会なので、集会も多くなく、日曜日の礼拝に出て、午後はゆっくり家で休むことができるので、よかった。

 彼は、時々黙想と祈りの夕べに来ます。私が名古屋のG教会にいたときに、彼のお父さんが岐阜の教会の牧師をしていました。その頃夏にG教会の日曜学校の子供たちのキャンプが、彼のお父さんが牧師をしていた教会を借りて何度か行われました。私もそのキャンプに参加しましたが、その頃彼は小学生でした。


     「今に至るまで働きたもう神」(『ルターによる日々のみことば』から)

 イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」
                                      ヨハネ5:17

 父なる神は、みことばによってあらゆる被造物の創造を始め、また、完成されました。そして、みことばによって、それらをいつまでも保持されます。そして、やめようと思われる時まで、創造のみわざを維持されます。創造主なる神が日ごとに保持してくださらなければ、太陽、月、宇宙はこれまで数千年そうであったように完全に運行することを、何分、続けることができるでしょうか。太陽ははたして年々一定の時刻、場所に現われ、そして没することができるでしょうか。神がそのみ手をひかれるならば、家も、すべてのものも、たちまちくずれて廃墟となります。人と天使の知恵と力も、瞬時も続きません。神がたえず働いてくださらなければ、太陽も天に長くとどまらず、光を失います。子供は生まれません。種も草もはえません。

 永遠に働かれる創造主と、ともに働いてくださるみ子と、聖霊が、み手を引かれると、すべてのものは瞬時に滅亡します。それゆえ、わたしたちは、使徒信条において次のように告白しています。「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます」。もし神がわたしたちを造られた後、保持し、支えてくださっていなかったならば、生まれおちたゆりかごの中で、たちまち滅び、死んでいたのです。

                                  ヨハネ福音書1章の講解