なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(110)

 昨夜は神奈川教区性差別問題特別委員会、セクシュアル・ハラスメント相談窓口設置準備委員会、社会福祉小委員会の共催の集会が紅葉坂教会であり、私も出席しました。「第36回 女性と男性の共生をめざす集い」で、「立ち上がる選択:性暴力を許さない社会のために」と題して講師の講演がありました。その集会のチラシに講師からの以下のような呼びかけの文章が載っています。
 
 「セクハラ、痴漢、レイプ・・・全て性暴力で犯罪です。どんな性暴力も被害者にとっては自尊心を奪われ、それまでの自分を根元から破壊される大事件です。性暴力が及ぼす社会的影響は、薬物やアルコール依存、精神障害、ひきこもり、失業、自死の選択など、様々な問題と深く関わっています。
 教会でも性暴力問題は存在するけれど、教会だからこそ被害者のためにできることもあるのです。水面下で苦しむ人達のために、性暴力を許さず、被害者が生きやすい社会を目指して、一緒に立ちあがりましょう。」

 昨日の私のブログでも、フェミニスト神学の会でかつて私がした発題のレジュメを掲載しました。性差別の問題、特に性暴力については本当に多くの苦しむ人達がいると思いますが、なかなか見えませんので、被害者への手が差し伸べられないケースが多いのではないかと思います。今回講師のお話をお聞きして、改めて講師の呼びかけにもある「性暴力を許さず、被害者が生きやすい社会」を創り出さなければならないと、強く思わされました。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(110)」を掲載します。


           「父北村雨垂とその作品(110)」

   1964年(昭和39年)日記(その3)

   1月15日
 
 成人の日で、新聞もラジオも、行事として成年者を題材としてゐる。まことに常識的である。常識的に行事する故に人々は納得してゐる。くだらぬ事に想われることが、矢張り一番大切なことなのだろう。社会とはさうしたものなのだろう。
 
 昨夜小林家で、ばん酌を三本のんだ後、カルタで勝負して、夜を明かした。馬鹿な話だが、どうもこの性へきが直らない。目にみえぬ蜘蛛の糸のやうなもので、がんじがらめにされて、反省をはるかに越えた、別世界の生きものとなった時間である。たあいもなく眞剣に動く生物であるやうに想われる。やはり人間のもつ一面であることに間違いない。
 
 勝負は結局私が僅かの勝ちで止めたが、この勝負にはいつも偶然が主導権を握ってゐる。もちろん熟練による、上手下手はあるが、それ以上に偶然の支配力が強い。勝負の面白さは、この偶然の支配力にあるやうだ。そうして私は斯ういう時に、よく想うのだが、この偶然にも一つのちつじょがあるやうにみえる。勝負によく言う。偶然を少し掘り下げてみようと思ってゐる。ツキがそれである。いつかはこの偶然を少し掘り下げてみようと思ってゐる。ツキを深く分析するとなかなか面白さうだ。

   1月26日
 
 昨二十五日が雨のために、十分な仕事も出来ないので、本日と変えて工場へ行く。
 
 留守中に懐窓氏(父の川柳仲間)が来たとのこと。今月始めから彼を待ってゐたが、遂々来訪がなく、いささか淋しい想ひであったが、偶然日曜に家を開けると、彼の来訪がある。旨く行かないものだ。去る二十四日は彼の家へ彌弥三氏(父の川柳仲間)が行くからそこで会いたいと手紙を受けたが、これもあいにく用事のために、行けなかった。まことに想うようには行かないものである。
 
 このところ、どうも体力が衰えた様な気がする。酒は最近やや良いやうだが、寒さが一段とこたえる。仕事を休んでベットに横たわってゐつと、一日中ウトウトしてゐる。讀書もコンが続かない。創作への気分が涌いて来ない。生きてゐる意味がだんだん薄らいで来たやうである。もっとも意味を期待して生きてゐる訳でもないが。まことにくだらぬ生き方であることに間違ひはなからう。
 
 もっともこの意味なるもおも、私本人にだけに通じる程度のものである。社会的に意味をもつと言う大それたものではない。社会的にみた場合の私は、いま考へてゐる意味なぞは、あってもなくても大体同じやうなものであらう。バクとした現在の私も、考へやうによっては、社会的に意味があるのかも知れない。大体人間なんてものは、囲碁に使う石のやうなものなのだらう。私一個では在っても無くても同じもので、数多くの私が在って、いろいとと用が足りる。言はば私は泣いたり、笑ったり、怒ったりする一個の碁石の如きものか。

  盤上の碁(いし)と壺中(こちう)の碁(いし)と碁(いし)