なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(128)復刻版

 「父北村雨垂とその作品」の続きは、後日に回させてもらいます。後残されているのは主に4冊のノートです。今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(128)復刻版を掲載します。

         黙想と祈りの夕べ通信(128[-23]2002.3.10)復刻版

 今日(3月3日)の礼拝後に役員会が開かれました。その終りかけた頃、一人の姉妹が私を訪ねてきました。先年帰天されたS.A.兄の妹さんになる方です。用件は、お聞きしたところ、教会墓地にS兄の分骨をしているので、自分も年をとり死期が近そうなので、何か寄付のようなことをしておきたいということのようでした。お元気なときに墓地管理料を出していただければ、それができなくなったときには、かまいませんので。教会の墓地は共同墓地なので、教会が続く限り春(イースター)と秋(収穫感謝日頃)に墓前の礼拝をしていきますので、心配なさらないで下さい、と申し上げました。けれども、どうしてもそれでは気がすまないようでしたので、墓地感謝献金として姉妹の気持ちを受けました。

 そのとき、彼女が自分の生い立ちや人生について、私にお話ししてくれました。話した後、今まで誰にも話したことはなかったと言われました。神を信じられる人は救いがあるから幸せです。私は無神論者なので、救いがありません。苦しみや悲しみを沢山体験してきて、なぜという疑問をもつこともしばしばでした。でも、一方今日の糧を得るために、考える暇などなく働かなければなりませんでした。自分は青森の出身で、そこに先祖の墓もあるので、近いうちに一度帰って、お墓のことも近くの縁戚に当たる人に後のことを頼んで来たい。もしその地に今後の自分の場所が与えられたなら、そこで最後を迎えたい。だめならば、今の目黒のアパートで誰にも迷惑をかけずに、来年の2月頃雪の降る日に召されたいとおっしゃいました。昨年秋の墓前礼拝に墓地までいらした時の彼女からしますと、明らかに体力の衰えが目立つ体で、淡々とお話しになりました。私は、神の眼差しは、信じる者にもそうでない者にもすべての上に注がれていることだけをお話ししました。この姉妹のことを覚えていただければ幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が、最近脳性麻痺、自閉、分裂という障がいをもつ人がその体験を自分の言葉で語る本が出始め、何冊かそういう本を読んでの感想を話してくれました。今までは主に障がいをもつその人ではなく、研究者の本を読んで来たが、最近ワープロやパソコンによって障がいをもつ人が自己表現できるようになってきた。文明の発達がすべてよいわけではないが、このことはすばらしいと思う。発語できないか、できにくい人を私たちは遅れた人或いは分からない人と決めつけがちだったが、その人たちが何を思っているのかを知らされたときに、一人一人沢山の表現をもっていることを知らされる。

 このワープロ、パソコンの発達は、障がいをもつ人との心のバリアフリーを私たちにもたらしてくれている。そして言葉を通してその思いを聞くことができるようになって、新しい出会いが可能となってきているように思う。自閉の子たちは、感覚的に鋭く、例えばどんな音でもびんびん響いてくると言う。彼らがそう発語することによって、その苦しみが想像以上のものであることが分かってきた。今後はそのような自閉の人たちと新しい出会いができるのではないかと、希望を感じうれしく思っている。それぞれの思いを語り合うことによって、相手と触れ合い、通じ合い、ますますお互いに豊かになって行きたいと思っている。

 また別の姉妹は、二、三日前に次男の連れ合いのお母さんから、以前孫がいじめを受けて苦しんでいたとき、それを乗り越え、今福祉の大学に進むことができたのは、あなたのお陰だと電話があって、自分はうれしい経験をすることができ感謝であると言われ、祈ることの大切さを強調された。



         「苦しみは必ず来る」(『ルターによる日々のみことば』より)

  「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」                                     ルカ14:27

 わたしたちは、自分の苦しみや十字架をいさおとみたり、救いを得るための手段として考えてはなりませんが、しかし、キリストに似るものとなるために、キリストの苦しみに従わなければなりません。福音書の中で多くの場所に示されているように、神は、わたしたちが十字架にかけられたキリストを信じるだけでなく、キリストとともに苦しみ、ともに十字架につけられるように定められました。

 それゆえ、それぞれのキリスト者は、聖なる十字架の一部を負わなければなりません。それは絶対です。パウロは、「キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ1:24)と言っております。ちょうどこのように言っているようです。主のからだにつながるキリスト者の数は完全に満ちていないと。そこで、わたしたちもまた、あとに続き、キリストの苦しみに少しも欠けたところがないように、すべてが成就され集められて、ひとつになるようにしなければなりません。それゆえ、キリスト者である人は、すべて自分の十字架が来ると考えなければなりません。

 そこで、名誉、財産、身体、いのちなどを危険にさらすならば、たしかにきびしく傷つく十字架にちがいありません。このような苦しみはたしかに損害を与えます。もしそうでなければ苦しみではありません。

 しかし、この真理を知っているならば、それはずっと軽く容易になります。そして次のように言って慰めを得ることができます。もしわたしがキリスト者でるならば、愛するイエス・キリストの法廷に出るためにお命じになる服装はただひとつ、苦しみという服装である、と。
                        
                              受難と十字架についての説教