なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師室から(13)

 以下の文章は、4年前に教会の機関紙に書いたものです。

 ちょうど2008年10月開催の第35(合同後20)回教団総会が終わった後です。この時期は、教団総会で議長による戒規申立てを無効とする第44号議案が可決されて、私の戒規問題はこれで終結したのではと思っていました。

 ところが、年が明けて2009年になりますと、2月だったと思いますが、当時の北東海教区議長から信仰職制委員会に「戒規の申立ては誰ができるのか」という内容の諮問が出され、当時の信仰職制委員会は教憲・教規には戒規申立者の規定が無いから原則的には「誰(個人)でもできる」という答申を出しました。それを受けて教師委員会が、それまでの教師委員会の「戒規に関する内規」では、「教師への戒規は教区常置委員会か教会の役員会が常置委員会を通してできる」となっていたのを改訂して、個人からの戒規申立も受けられる道を開きました。それが2009年7月13日です。すると7月末に当時の常議員のひとりである小林貞夫さんから私を戒規にかけるようにという申立が教師委員会にだされました(一委員会の内規改訂を約2週間後に、委員会以外の部外者小林貞夫さんが、どういう経路で知ったのかは分かりませんが、私に対する戒規申立書を書いて教師委員会に出すことができたということが、私には不思議です)。教師委員会は9月に小林さんからの申立を受理して、教師委員会の中に調査員会を設け、申立てをした小林さんから一度事情を聴取し、私には3度調査委員会来るようにという申し入れがありましたが、紅葉坂教会役員会から信仰職制委員会への諮問中を理由に、私は答申がでるまで待ってくれるようにという回答を3度出しました。けれども、調査員会は私の回答を私が調査員会への出席を拒絶したことにして、報告を教師委員会に出し、その報告に基づいて教師委員会は2010年1月26日私を免職にしました。

 同じ1月26日に信仰職制委員会から、「委員会の内規は教団規則ではない」(紅葉坂教会役員会からの諮問に対して)と「先例集96(戒規は教区常置委員会を通してという)を尊重することを希望する」(北海教区議長の久世そらちさんからの諮問に対して)という答申が出ました。

 以後の経過は割愛します。


                    牧師室から(13)

 教団総会が終わり、戒規申立無効の議案が意外にも可決されて、ほっとしています。けれども教師退任勧告撤回議案は否決されていますので、問題解決というわけにはいきません。勧告はまだ生きているからです。この私の教師身分に関する問題は、聖餐の問題が根にありますが、さらにその奥には、聖書理解、教会理解、宣教理解における基本的な相違があります。以前既に召されておられます井上良雄先生が1977年の戦責告白十周年に当って書かれた論文で、そのことに触れています。その部分を引用させていただきます。

「『戦責告白』が発表されて2年後からはじまった教団の『混乱』は今日も続いており、それがどのような形で収拾されるのか、予測できる者はどこにもいない。そればかりでなく、それが何を原因として起こった『混乱』なのかについてさえ、いろいろの解釈があって一定しない。しかしその原因が何であったにせよ、今日ようやくはっきりして来た教団内の教会観の相違・対立の中で、『戦責告白』がちょうど大きな分水嶺のように、教団全体を貫いて走っているということは明らかではないであろうか。『戦責告白』をどう評価するかによって、その人の教団内での姿勢がほぼ定まるという具合である』。

この教会観の相違・対立は、井上先生がこの論文を書いた時から30年を経過している現在の教団におきましても、すぐに解消することは望めませんし、30年前よりも更に固定化した状態ではないかと思います。それでも、私たち人間の営みは絶対ではありません。神にあっての必然が、私たちの中に偶然という形で現れるかも知れませんので、あきらめは禁物です。     
                                       2008年11月


 数週間前に礼拝の牧会祈祷を祈っていた時です。私は神の声を聴いたような不思議な体験をしました。それは、「次々に起こる殺人事件に命の大切さ、重さを私たちにもう一度深く気づかせてください」と祈っていた時です。「あなたはそのように祈っているけれども、命が軽く扱われ、幼い子の命も、お年寄りの命も、また無差別に人の命を狙って起こる事件や戦争によって失われてしまう年齢に関係の無い多くの人の命も、それを奪うのは同じあなたがた人間ではないか。既に亡くなった人を含めてあなたがたすべての人間総体の営みがこのこと、つまり余りにも命を軽く奪う人を創造しているのではないか。」という声です。そして「もしあなたが『・・・命の大切さ、重さに気づかせてください』とわたしに祈るなら、今までのあなたがた人間総体の営みが意識的、無意識的にめざしてきたものをあなた自身が捨てて、わたしに従って、わたしのめざす未来を今から生きなさい。それをしないで、次々に引き起こされる殺人事件による不条理な死者や、愛され生かされてある己を実感できないこの社会の中で自ら命を捨てる自死者がなくなるようにと、わたしに祈られても、わたしもどうすることも出来ないではないか」。そういう声です。私はその時、「自分で蒔いた種は自分で刈り取ることになる」という真理に畏れおののいていました。このことは、別の見方をすれば、現在頻繁に起こる殺人事件に、事態の深刻さをどれほど切実に感じていただろうかという、私自身の反省なのかもしれません。

 生きている他者の声に耳を傾けなくなった私たちは、同じ他者である死者の切実で深刻な声が聞こえないのも当然なのかもしれません。
                                       2008年12月


 「年の初めに」の中でも上村静さんの『宗教の倒錯』(岩波書店、2008年9月発行))から引用させてもらいました。この本は、私が若いときから考えてきたキリスト教信仰がもっているイデオロギー性について、私の納得できる論証をしてくれています(イデオロギーとはドグマ、すなわち「正しいかどうか論証が必要なことがらを、無条件に正しいと信じさせること」である。橋爪大三郎)。興味ある方は是非読んでみてください。

 この本の一節にこういう言葉がありました。「刹那を生きることは刹那的に生きることではない。一瞬一瞬に〈いのち〉を輝かせて生きること、それが生かされて在る〈いのち〉を十全に生きることなのだ」(202-203頁)と。
   
 いい言葉だと思います。私も去る12月で満67歳になりました。少し自分に与えられている時間が気になるようになりました。若い時には自分の終わりを考えることは皆無と言ってよいくらいでした。牧師という仕事上、沢山の方々の死に立ち合っていますが、自分がどのような形でその最後を迎えるのだろうかと思うときがあります。でもそれは考えてどうなることでもありません。教会のお年寄りの方々を見ていますと、その若々しさに感動させられます。その秘訣は何だろうかと考えてみるときに思い当たるのは、前記の上村静さんの言葉です。

 横浜の私のところに年に数度訪ねてくれる名古屋の御器所教会時代の方がいます。その方の今年の年賀状に、「ハ二翁 学ぶこと多し 去年今年」と記されていました。この方も一日一生に集中して、年齢に関係なく、「一瞬一瞬に〈いのち〉を輝かせて生き」ているのでしょう。見習いたいと思います。
                                  
                                       2009年1月


今回思わぬ形で新教出版社から『自立と共生の場としての教会』と題した私の本が出ることになりました。実は聖餐をめぐる私の教師退任問題が一年以上になり、昨年10月開催の教団総会が終わった頃、私は自分の考えてきたことをまとめて自費出版でもいいから、公表しようという想いにかられました。何故かと言いますと、聖餐をめぐる私の教師退任問題をめぐる教団における論議の渦中にいながらずーっと、私の中にはこの論議はどこか違う、核心がずれているという違和感が消えなかったからです。その想いを家で話しましたら、妻や娘からは、常々私の購入した膨大の数の書籍の始末について問われていましたから、本を出すなんて紙の無駄使いと一蹴されてしまいました。それも確かにそうだなあと思っていたところに、新教出版社の方から今までのものをまとめて本を出してみないかという誘いが来ました。何か不思議な「導き」を感じて、まとめてみることにしました。出版者の方はある会で行なった私の発題を聞いて、私の教会や宣教についての考え方に関心を持たれたようです。「北村先生の今日の教会観/教会論はそれ自体で普遍的な内容をもつと思いますが、おそらく最初からそのようなものを持っておられたと言うより、次第に形成されてきたものではないかと思いますので」自伝的なパートをぜひ書いていただきたいということでした。この本の内容のメインになるのは、私が95年に紅葉坂教会の牧師に就任した時に、役員会から私の宣教方針を問われて話したものです。毎年の紅葉坂教会の牧会方針にもなっています「自立と共生の場としての教会」です。2月末には出版とのことですので、みなさんにも読んでいただければ幸いです。
                                        2009年2月