今日は「父北村雨垂とその作品」(145)を掲載します。
父北村雨垂とその作品(145)
原稿日記「一葉」から(その28)
故川上三太郎先生は、蒼々亭 と、私は「洗心洞 北村雨垂」と考へたがどうだらう。
(1979年(昭和54年)8月20日)
哀しさの
なにかは知らぬ
嬉しさの
瞳に浮かぶまま
時間(とき)と 流るる
洗心洞 雨垂 1978年(昭和53年)8月24日
グー チョキ パー
グー チョキ パー
父さん 朝から グーばかり
母さん 昼から 膝(ヒザ)に チョキ
わたしは ぱーで 隠れんぼう
ボクもジャンケンポンが好き
洗心洞 雨垂 1978年(昭和53年)8月25日
クレオン 1979年(昭和54年)9月12日 試作
私のいのちとこころは
絶対に 無色で透明である
太陽のひかりと神の存在も
絶対に 無色で 透明である
ときにいたづら者の雲が
雨を降らせて 神と太陽を隠してしまうと
これも無色で透明な風が怒って
この意地悪の雲奴と追い拂ってしまうと
太陽は神と共に感謝の意(こころ)を虹に表象した
これをみた私のいのちとこころは
急に それが欲しくなって
私を抱(かか)えてゐるいのちとこころが私を急きたてて
クレオンを購いに 街へ駆けて行った
時間考
時間は時間そのものとして存在するのではない。我々の思惟に於てのみ存在する非存在の存在、即ち空
(くう)であると云う存在と考えられる
雨考 1979年(昭和54年)9月18日
鬼面 駆ける 点線 駆ける
水仙や 君は 悲劇を 賛美 するか 1979年(昭和54年)11月10日
さらさらと 掌を漏る土の 深い睡り
時計の 唖者が 私の知惠を借りる現在(いま)
野菊 その一 1979年(昭和54年)12月1日
点も 線も
神 も 私も
空間も 時間も
有限も 無限も
アプリオリもアポステオリも
悟性も 理性も 弁証も 実存も
カントも ヘーゲルも マルクスも
私の爪の垢に 笑ひとばされている
爪も 垢も 私の実存の総ても 何?に
笑いとばされている
野菊は 北吹く影で 脚下で
太陽と 楽しんでいる
何?何?も忘れた 日曜を静かに
犬に仔猫が戯れている
冬の陽を いっぱいに浴びて
日曜を静かに