黙想と祈りの夕べ通信(350)復刻版を掲載します。2006年6月のものです。
ここには、そのころのブログに書いた文章が転記されています。ブログをはじめたことのものです。
黙想と祈りの夕べ通信(350[-37]2006・6.11発行)復刻版
弁証法などと難しいことを言わなくとも、物事には一面ではとらえきれない多様な実体があります。沖
縄で戦後米軍基地反対闘争の先頭に立って闘った阿波根昌鴻さんに、岩波新書から出ている『命こそ宝~
沖縄反戦の心~』という著書があります。「命こそ宝」こそ、「沖縄戦というこの世の地獄を経験し、そ
して敗戦後の半世紀、ずっと基地反対闘争を闘ってきて、もう90歳になる」阿波根昌鴻さんが、生涯をか
けて伝えたいことばだと言います。阿波根昌鴻さんの場合は、その重い体験の中からこの言葉が出てくる
わけですから、すごく説得力があります。ただ私たちが、子供たちや若者に向かって、「命こそ宝」なの
だから「命を大切に」しなきゃだめよと言う場合、阿波根昌鴻さんほどの説得力があるでしょうか。ない
ように思うのです。正しいことを言っているのですが、「命は大切に」という言葉が、相手の体に跳ね返
されて、語る者の方に返って来てしまう感じがするのです。これは何なのだろうか? ずっと私はそのこ
とを考えてきました。そして暫く前に、ある機関紙を読んでいて、星野富広さんの以下の言葉に出会いま
した。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものがある
と知った日/生きるのが/嬉しかった」。「いのちより大切なもの」が、ヤクザの親分だとか国家だとか
会社だとか言われると困まりますが、この星野富広さんの言葉に出会って、なるほどと思わされました。
「使命」とは「命を使う」と書きますが、命は何に命を使うかによってその真価が問われるのかも知れま
せん。
イエスという方が何に命を捧げて生きたのかを知りたいと思って、私は聖書と格闘しています。
(2006年5月9日)
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。聖書の最初の書き出しがこの言葉です。私たち
は何を「第一のもの」としているでしょうか。人間にとってその人が何を第一にしているかということは
大変重要なことです。それによってその人の生き方が違ってくるといってよいでしょう。「家内安全、商
売繁盛」、「健康第一」、「自己中」、「富や名声」、「世間体」、「権力」、「趣味」、・・・・。いろい
ろです。けれども、何であれ自分の中に「第一のもの」をもっているということは、その人がどう生きて
いくかという方針や方向がはっきりするということでもあります。人間としてどうかはともかくとして、
「自己中」の人は迷いがないように見えます。深いところではどうなのかは分かりませんが、少なくても
自分を中心にして何でも考え、行動するわけですから、その生き方が一貫しているとも言えます。一貫し
ているということは、その人なりに筋が通っているわけですから、迷いがないわけです。自分にとっ
て「第一のもの」は何か、「はじめ」は何かということは、すごく大切なことです。「はじめ」があると
いうことは、「おわり」もあることになりますので、出発点から終局点に向かって歩いたり、走ったりす
ることができます。スタートとゴールがはっきりしていることによって、私たちは生き生きと走ることが
できるからです。スポーツ選手が生き生きと見えるのは、スタートとゴールがはっきりしているからでし
ょう。宙ぶらりんの状態、どっちへ行っていいのか分からない、はじめも終わりも分からない中間の状態
にあるというとき、私たちはどうしてよいのか分かりません。創世記1章2節に「地は混沌であって」と
ありますが、まさにそういう宙ぶらりんの状態とは混沌そのものです。自分の存在も意味も何がなんだか
分からない。この状態は私たち人間にとっては大変きついことです。
関根正雄さんという旧約の学者はこのように言っています。「わたしは少し年をとりましたのでしょ
う。本当になんともならない空しさを時々感じるわけですが、どなたでも真面目に人生を生きようとした
ならば大なり小なりそうだろうと思う。混沌としてあまりに意味がないというか、現代の世界を見ていて
何ともならないでしょう。だから何もしないでいいということにはなりませんですね。その辺のところに
わたくしの信仰の問題として、現代の実践の問題としての課題があると思うのです。」と。
「初めに、神は天地を創造された」。天地の創造者なる神をほめたたえる讃美、これは私たち人間の出発
点だと、聖書の記者は語っているのではないでしょうか。
(2006年5月10日)
以上私のヤフー・ブログ「なんちゃって牧師の日記」から。