なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(351)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(351)復刻版を掲載します。2006年6月のものでえす。         

        黙想と祈りの夕べ通信(351[-38]2006・6.18発行)復刻版


 去る日曜日には沖縄から前沖縄教区議長のY牧師をお迎えして、礼拝説教をしていただくことが出来ま

した。先生の説教の中で人権を守り平和を造り出すために命をかけることが宣教であって、そのために教

会が滅びてもいい。人権を守り平和を造り出すために命をかける宣教の結果、教会の教勢が増えるなら

ば、幸いであるという趣旨のことをおっしゃいました。私はこのY牧師のお話を聞いていて、かつて教団

新報がどこかで、「滅びの宣教」という言い方で、筑豊の教会の宣教についてある牧師が書いていたこと

を思い出しました。この牧師の投稿に対して、一部の人々からは「滅びの宣教」とは何事か、という批判

が寄せられました。炭鉱が閉山し、どこにも行くことが出来ない炭鉱で働いていた人々が、その閉山の炭

鉱の町に残って住んでいます。そこにある教会は、人口の増加が望めず、徐々に人口が減少していく炭鉱

の町で福音の宣教の使命を負っているわけです。その町に住む人々と共に滅んでいこうとする町にあっ

て、その滅びを共有しつつ、教会が宣教の働きを担っていくのだという、その牧師の姿勢に私は感動した

ことを思い出しました。Y牧師の説教を聞いていて、福音宣教の厳しさを改めて強く感じさせられまし

た。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。さっきテレビの神奈川のニュースで横須賀の

市長が原子力空母受け入れを宣言したと放送していた。横須賀市民の側は横須賀市長の原子力空母受け入

れに対して反対し、闘い続けると言っている。沖縄でも市民は反対しているのに行政の長である市長が受

け入れる場合が多いが、これはどういうことなのか、考えさせられる。長になる人は選挙で市民から信頼

を得て長になるのだが、長になり権力の座につくと、違って来る。人権を大切にするべきなのに、さらに

上の権力に擦り寄る。米軍再編のことでも同じである。行政とは異なる日本基督教団にも同じことがあ

る。神奈川教区の性差別問題特別委員会でも、教区で必要をされてできた委員会であっても、会計がどう

のこうのとある人から責められる。教団の議長も同じである。神を信じる者でありながら、対立し合う関

係になってしまい、一つの方向を見据えていくことができない。茶番劇のようなものである。Y牧師のお

話にもありましたが、地域の人の人権を守るために教会があるということを聞いて、ただ対立するだけで

なく、祈り求めながらいきたい。

 別の方の発言がありました。先週私が育った教会に転会の願いを出してきた。信条の違いがはっきりし

ているからである。一昨年から紅葉坂教会に時々出席しているので、紅葉坂教会に受け入れてもらいたい

と願っている。私は現在65歳である。健康が許されるなら、後20年間教会で働かせていただきたいと思っ

ている。今前の方の発言の中にありました原子力空母の問題も、私自身徹底的に非武装主義者なので横須

賀の母港化は反対である。私は教会の姿勢として四つのことを考えている。ー匆颪北椶鮓?韻襦地域

に奉仕する。7觝Ъ阿篭飢颪僕茲討い覆た佑任盍?昭圓砲呂任るだけする。だ算措阿鰐ぜ??圓眷羯

できる。47年前に洗礼を受けたK牧師にも転会のことをお話ししてきて、了解いただいた。K牧師からも励

まされて今は充実している状態である。