なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(42)

4月10日(日)棕櫚の主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   149(わがたまたたえよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-149.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編24編1-10節(讃美歌交読詩編25頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章30―33節(新約287頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      309(あがないの主に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-309.htm

⑨ 説  教    「石に躓く」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日は、教会歴によりますと、「棕櫚の主日」で、今日から受難週です。今週の金曜日にイエスは十字架に架けられ、虐殺されて、死んでいきます。そのような人間の死だけを考えますと、今ウクライナのロシア軍による虐殺で殺されていった、或いは今も殺されている多くのウクライナの人々のことが、イエスの十字架死と重なってきます。その意味で、今年の受難週は特別な時に思われてなりません。

 

  • 今日は、棕櫚の主日ですが、ローマの信徒へ手紙(以下ローマ書)の続きの箇所(9:30-33)から、わたしたちへの語りかけを聞きたいと思います。

 

  • パウロは、自分の同胞イスラエルの人々、ユダヤ教の会堂の人々のことを問題にしているローマ書9章(―11章)において、これまではどちらかと言うと、反対者の言うことを受けて、何とか説明しようとしてきました。神はユダヤ人を神の民として選んだにもかかわらず、肝心のユダヤ人が神に逆らっていることについて、反対者は、神の約束は無効ではないか(6節)。神の側に不正があるのではないか(14節)。神に人間を責める権利があるか(19節)。こういう質問をパウロに投げかけているからです。パウロはこれらの質問に何とか答えようとしてきたのです。ですから、パウロの答えは、何となく、歯切れがわるいいというか、遠回りな感じがしないでもありませんでした。

 

  • しかし、今日のところは、ずばりユダヤ人の責任を問い、ユダヤ人の誤りを示し、問題がどこにあるかということを、はっきりと示しているのであります。

 

  • 30節で、まずパウロは14節の問いをもう一度取り上げています。14節の問いとは、このような問いです。「では何と言おうか。神のもとに不正があるとでも?」(田川訳)です。そして「義を追い求めない異邦人が義を得た。信からの義である」(30節、田川訳)と述べているのです。それに対して、「義の法(律法)を追い求めるイスラエルは法(律法)に達しなかった」(31節、田川訳)と言っているのです。

 

  • ここには、異邦人とイスラエルユダヤ人の対照的な姿が描かれています。「義を追い求めない異邦人」に対して「義の法(律法)を追い求めるイスラエル(=ユダヤ人)」です。また、「異邦人は義を得た」に対して「イスラエル(=ユダヤ人)は法(義の律法)に達しなかった」です。

 

 

  • バルトは、「義を追い求めない異邦人が義を得た。信からの義である」(30節、田川訳)という30節について、このように言っています。<神の義がイエス・キリストの教会において出来事となったと言い、その教会には、「欲するところや、走るところによって(つまり人間の決意や行動によって)導かれたのではないのに、この神の義、あわれみの意志を事実上理解し、把握した異邦人が存在する。それはきわめて単純に起こった。それは死人の目覚めであった。彼らは死人の目覚めを信じ、それによって、死人の目覚めが彼らを益したのである。それが従順な者の従順である>と。

 

  • この異邦人は、死人の目覚めを信じ、神の義、あわれみの意志を事実上理解し、把握したと言うのです。信による義(信仰義認)とは、死人の目覚めを呼び起こす神の奇蹟によるとしか言いようのないものです。信(信仰)とは、自分から生きるのではなく、イエス・キリストにおける神の憐みを信じて、神から生きることだと言えるでしょう。それは死人の目覚めを呼び起こす神の奇蹟としか言いようのないものなのです。

 

  • <それに対立しているのが(31節)、今日に至るまで続けられているイスラエルの試み、すなわち義の律法――約束と契約の民イスラエルに与えられた生の秩序――を、その欲するところと走るところにより、その決意と行動の力で満たそうとする試みである。しかしその結果、イスラエルはそのためかえって神の義を把握し、理解しなかったばかりでなく、律法、すなわち彼に与えられた生の秩序をも事実上、満たさずに終わってしまったのである。イスラエルにはかの異邦人に欠けていたいっさいのものが欠けていなかった。しかし、32節前半によれば、次のこと、つまり決定的なことが欠けていたのである。すなわち、イスラエルは自ら欲し、また走っていき、かくして律法の業を自分で成就することにより律法を満足させようとし、一方、与えられている約束――それこそ律法の意味なのだが――への信仰のうちに、すべての業の中の業を行なうことをせず、神が彼に対して欲したことを信じるという業をしなかったのである。このことが欠けたために、イスラエルはまさに律法を満たそうと欲したことにより、かえって律法を犯してしまった>のであります。

 

  • 32後半―33節には、そのようなイスラエルについてこのように記されています。「彼らは障害の石にぶつかった。『見よ、シオンに障害の石を、躓きの岩を置く。これを信じる者は、恥を蒙ることがない』(田川訳)と書かれてあるように」。

 

  • <32後半―33節によれば、イスラエルは石につまずいたのであり、本来イスラエルが立つべきであった岩、神のあわれみの意志につまずいたのである。神のあわれみの意志は、イスラエルがそれに対し、信仰を捧げず、従って従順を示さなかったことにより、イスラエルに対して滅びとならざるをえなかった。イスラエルはまさに神によってイスラエルに備えられた救いをはずかしめたのである。それこそ人間の欲すること、また走ること自体が、たとえ神ご自身により最善に備えられた条件のもとにおいても、造り出さざるをえないものである。すなわち、その業は不信仰という破滅的な業である。信仰において把握されるべき神のあわれみのみが、神と人間の共存を保証し、従って人間を救うことができるであろう。かくして神のあわれみのみが、ただひとり人間に向かって立つ。神のあわれみのみが、人間の告発ではあるが、またその希望でもあることは、神のあわれみがその裁き主の義にほかならないのと同様確かなことである>。
  • <こうしてみれば、ひとりの人間が、律法の行為によっては救われないで、神の恵みによって救われるということと、全く同じであることが分かるのであります。義の律法を追い求めたイスラエルが、そのために、かえって、失敗し、神との間の関係は、恵み以外には考えられなかった異邦人が救われた、というのは、世界の歴史の中のまことに大きな皮肉であります。しかし、これこそ、実に、神のお望みになるところであり、神のみ心にかなうことであったのです。なぜなら、これこそが、神を神として崇め、神に栄光を帰する、ただひとつの道だからであります>(竹森)。

 

  • わたしたちも、このことをしかりと覚えておきたいと思います。私たちが、神に招かれて、信じてキリスト者(キリストの者)とされたのは、私たちの生と死において神に栄光を帰し、神を讃えるためだからであります。それが本来の神に造られた被造物としての人間の生なのです。

 

  • 私はロシア軍によるウクライナ軍事侵攻のさ中で、人間の高慢の罪の恐ろしさに打ちのめされながら、この説教を準備していて、4月7日の朝に読んだ「この人を見よ」と言う表題のボンフェッファー『主のよき力に守られて、~ボンフェッファーの一日一章~』に、励まされました。少し長くなりますが、その全文を読んでみます。

 

  • <この人を見よ。この人において、神とこの世との和解が成立した。この世界は、破壊によってではなく和解によって克服されるのである。この世界の現実と対決して、この現実を克服するのは、われわれの理想や計画ではなく、また良心や義務や美徳でもなく、ただ神の完全な愛だけである。この世に対する神の愛は、この世の最も激しい現実にまで到達し、この世の苦しみを身に負うのである。この世はイエス・キリストの体に激しく襲いかかるが、キリストは苦しめられながらもこの世の罪を許す。このようにして和解が成し遂げられるのである。この人を見よ。この和解者である神人イエス・キリストの「かたち」は、神とこの世界との中間に立ち、すべての歴史、出来事の中心となる。

この「かたち」によって神の秘密が明らかにされるが、同時にこの世界の秘密も明らかにされる。どのような悪の深淵も、この世界を神に和解させた方によって、隠れたままでいることはできない。それどころか、神の深い愛は、神のいないこの世の最も深い淵をも、その中に包み入れるのである。神は、われわれの理解を越え、この世の正義と敬虔とについてのあらゆる考えをひるがえす。神は、自分をこの世に対して罪あるものとし、そのことによってこの世の罪を取り除く。神は、屈辱的な和解の道を歩み、この世を解放する。神は、われわれの罪責を身に負い、罪責がわれわれのうえにもたらす罰と苦難とを自分に引き受ける。神が神なき者の味方となり、愛が憎しみの味方となり、聖なる者が罪人の味方となる。今や、いかなる神なき者もなく、いかなる憎しみも、罪もなくなる。神がそれらすべてを自分に引き受け、苦しみ、そしてその報いを受けるからである。今や、神との和解に入れられず、神との平和を与えられていないようないかなる現実も、いかなる世界もなくなる。このことを神は、その愛するみ子イエス・キリストにおいて成し遂げたのである。この人を見よ>。

 

  • イエス・キリストによって成し遂げられた神との和解と平和な世界は、ロシア軍によるウクライナの軍事侵攻をはじめ、未だ専制主義的な国家を抱えており、また新自由主義的な経済優先の格差社会を是としているこの現実の世界にあっては、人間の高慢な罪によって覆い隠されてしまっているかに思われます。それにも拘わらず、私たちはイエス・キルストにおける神の慈しみを信じて、平和を造り出す者として、ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻という暴挙に対して、抗議すると共に、神がイエス・キリストにおいて開いて下さった和解と平和な世界を指し示していきたいと思います。

 

  • 主が私たちにその力を与えてくださいますように。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから、今日で46日になります。最近ロシア軍が撤退したウクライナの町の惨状が明らかになってきました。そこには戦闘員でない民間人の虐殺死体が放置されていたり、生存していた人の証言によれば、ロシアの軍人の目に余る暴力は、本当に赦し難いことであります。けれども、かつて太平洋戦争において、日本軍兵士も、すべての兵士がというわけではないと思われますが、多くの兵士は、アジアの人々に対して、また沖縄の人々に対して、同じようなことを行ったに違いありません。一刻も早く停戦が実現しますように祈ります。
  • イエス・キリストの福音が示す人間の救い=解放に、どうぞすべての人が浴し、敵対と争いから解放されて、平和と和解によって生きていくことのできる世界が到来しますように、心から願います。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      305(イエスの担った十字架は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-305.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(509)

船越通信、№509 2022年3月27日(日)北村慈郎

  • 私は3月8日(火)~10日(木)に秦野日赤に前立腺の検査入院をし、その結果を3月25ひ(金)の午後に主治医から聞きました。今回の検査は、主治医から数値が相当高いので検査しましょうと言われての検査で、前立腺の検査としては3回目でした。14か所から組織を取りましたが、今回もすべて癌性はなかったということで、一安心しました。
  • 27日の日曜日は、21日からまん延防止特別措置が解除されましたので、久しぶりに会堂での礼拝を再開しました。私はそのために前日の26日(土)に船越教会に来ました。その夜は教会2階の牧師館に泊り、27日(日)朝7時頃からその日の週報と教会だより「船越の丘から」№17の印刷をしました。それから、教会の玄関を開けて、外階段の扉も開き、楽ちん号を道路からの階段下まで動かして、礼拝前の準備は完了です。
  • 10時頃から階下に人の気配が感じらえましたが、私は2階の牧師館で礼拝の準備をして、何時ものように礼拝開始10分前頃に会堂に降りていきました。礼拝堂にいた一人一人に挨拶して、いつも座る講壇に向かって左最前列の椅子に座り、礼拝開始の時間を待ちました。礼拝が開始し、説教の時が来て、講壇から話し言葉で久しぶりに会衆の反応を感じながら説教をしました。頌栄の後、諸報告があって、この日の礼拝は終了しました。対面による会堂での礼拝は、やはり特別です。
  • この日の報告者であったWさんは、通常の報告に加えて、新型コロナウイルスに対するワクチンや経口薬は、まだその対応が十分ではなく、小さな子供たちへのワクチン接種が、その子供たちの将来にどんな影響を及ぼすかも分からないままの接種で心配であることなど、このウイルスはまだまだ私たちの日常生活に影響を及ぼし続けていくに違いないこと。また、現代社会はITや人工知能などによって、生産業が中心であった社会にはあり得なかった、10年で億万長者になる人が現れたり、GAFAのようなIT企業が情報を管理し、私たちの行動を誘導するようにもなっていて、一部の超富裕層と圧倒的な貧困層に社会が分断され、これからの社会がどうなっていくのか、本当に心配だという主旨の発言を熱く語られました。私たちも共感しながら聞いていました。現代社会はバーチャルな空間が大きく広がっていて、その世界に幻惑されてしまうと、なかなか地に足をつけて生活することが困難になる危険があるように思われます。そこで大切なのは、私たちの生活基盤は大地と人と人との関係であることを、冷静に認識し、日常の見える、肌で触れ合う身近な一人一人との交わりを大切にし、可能ならば第一次産業や人から必要とされるエッセンシャルワーカーで働く人々を大切にする社会を、下から市民連合の形でつくりあげていくことではないかと思われます。斉藤幸平の「脱成長コミュニズム」です。
  • この日は礼拝後役員会が行われました。年度の終わりの役員会ですので、次年度の総会の準備がメインの課題です。次年度総会は4月17日(日)のイースターの霊は後に行うこと、2021年度の教務報告、会計決算報告、2022年度基本方針並びに事業計画、予算案などは4月3日(日)役員会までにそれぞれ用意することを確認しました。またロシアによるウクライナ軍事侵攻への教会としての抗議声明を出すこと、街頭行動の可能性、教会の災害用備品および災害時に教会ができること、教会の記録の管理のあり方などを話し合いました。役員会は午後2時に終了し、私は午後2時半ごろ船越教会を出て鶴巻に帰りました。
  • 29日(火)19:00-21:00にZoomで、教団有志による沖縄から基地撤去を求め、教団「合同のとらえなおし」をすすめる連絡会(もとすす)の世話人会がありました。

久しぶりに出す通信の打ち合わせと、今年は沖縄の復帰50年に当たりますので、リモートで講演会ができないか、意見交換をしました。通信の各地の報告の中に、相模原の座間ゲート前のバス停の所で行っている「バスストップの会」と、生前千賀も毎週木曜日参加していた「国会前の辺野古新基地建設反対座り込み」を加えることになり、私が依頼することになり、後日それぞれにお願いし、書いてもらえることになりました。

  • 30日(木)16:30-18:00、高座渋谷教会で教区の基地小の委員会がありました。久しぶりの対面での委員会でした。一年間の振り返りと、教区に出す年度報告の確認をしました。また、次回の委員会では、可能ならば委員会学習会として、毎年行っています「2021年度のかながわの基地の動き」を市民運動の方からスライドでお話してもらうことにしようということになりました。日米軍事同盟の強化に伴って、南西諸島の自衛隊基地の拡大強化と共に、船越の海上自衛隊の基地強化もあり、かながわの基地も強化されているのではないかと思われます。ロシアによるウクライナの軍事侵攻というひどい暴力を思うと、基地撤去によって軍事力によらない世界平和の建設が必然だと思われますが、日本の中でも今も軍事力による安全保障を訴える声は止みません。基地小の委員は現在6人ですが、なかなか新しく委員に加わってくれる人がいませんので、やめるにやめられない状況で、次年度もこのまま6人体制でいくことになりました。
  • 4月2日(土)13:00-15:30、紅葉坂教会で私の支援会の第9回総会が行われました。基地小の報告でも触れましたが、ロシアによるウクライナの軍事侵攻のことを、この総会の挨拶で、世話人代表の関田先生は、いつのように「主われを愛す」を、今回は会場教会の讃美歌を歌う時に会衆は声を出さないという申し出を受けて、先生が独唱してくださったあと、支援会の運動とは直接関係はないが、どうしても言わないではいられないと言って話されました。先生はご自身の戦時下にあった少年時代を引き合いに出し、かつての日本のアジア侵略行為は、今のロシアがしていることと全く変わらない。ウクライナ軍事侵攻後のプーチンの支持率が80%と言われるが、かつての日本軍の軍事侵攻である満州事変にしても真珠湾攻撃にしても、自分も少年ながら万歳と叫んだ。教団は戦責告白によって再出発ことを忘れてはならないと。その先生の発言が強く心に響きました。後の報告は次回に。

ローマの信徒への手紙による説教(41)

4月3日(日)受難節第5主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   17(聖なる主の美しさと)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-017.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編22編25-32節(讃美歌交読詩編24頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章19-29節(新約287頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      297(栄の主イエスの)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-297.htm

⑨ 説  教    「憐れみの器として」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 四月になりました。京急で横浜から来ますと、日ノ出町を出たところの辺から大岡川沿いの桜が見えます。今が見ごろで、屋台も出ていて、見に来ている人もそれなりにいるのが見えます。花冷えの日もありますが、いよいよ春到来です。今日もローマの信徒への手紙(以下ローマ書)の一節から、語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ≪神はあわれもうと欲する者をあわれみ、かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫。これが、今日の箇所(9:19-29)の直前の9章18節で、パウロが語ったことです。

 

  • このこと、特に後半の≪神は、…かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫を受けて、19節で、≪ではあなたは私に言うだろうか。「それなら、(神は)なおも(我々に対して)いったい何を非難するのか。誰も神の意志に逆らうことなどなかったではないか」と≫(田川訳)、とパウロは言っているのであります。

 

  • ここで「あなた」とは、誰のことを意味しているのでしょうか。パウロは、自分もその一人であったユダヤ教徒(会堂)の人たち、つまり神によって頑なにされている人たちのことを指して、ここで「あなた」と言っているのであります。≪ではあなたは私に言うだろうか≫と言って、「神がかたくなにしようと欲する者をかたくなにする」とすれば、≪「それなら、神はなおも我々に対していったい何を非難する(責める、咎めるとも訳されている)のか」と≫。

 

  • この19節は、<神の意志が絶対であって、それに逆らうことはできない、というのなら、今まで誰も神に逆らう者などいなかったはずだ。それなのに、神に逆らう者は罰せられる、などというのは、おかしいじゃないか、と言っている>(田川)のです。

 

  • それに対して、パウロは、20節前半でこのように語っています。≪おお、人よ。神に対して言い返そうなどとは、あなたはいったい何者なのだ≫(田川訳)。

 

  • これは、パウロのがっかりした言葉ではないかと思います。「おお、人よ」がそれをよく示しているのではないでしょうか。パウロは言います。<あなたは実に神のあわれみの対象として、神に向かい、「神は自分に何か責むべき点があるのか」などという問いを向ける可能性さえ、いや、そうするための声や言葉さえ、まったく持ち合わせない人間ではないか>。

 

  • <あなたは、その独り子さえ惜しまず、彼をわれわれすべてのために――あなたのためにも――任し渡してしまったような神の前に立っている人間なのだ(8:32「神は御自分の御子さえ惜しまず、我々皆のために(死へと)引き渡し給うたのであるから、どうして御子とともにあらゆるものを我々に恵みとして与えて下さらないなどということがあろうか」田川訳)>。

 

  • <あなたは、神が人間に対して責むべきすべての点で、ご自身の御子に対し責めたゆえに、事実何も責むべき点のない人間であり、今や神がただご自身のいつくしみをもってしか、向いあおうとされない人間なのである>。

 

  • <しかり、たとえ神が(エジプトの王)パロを用いたように、あなたとあなたの抵抗を用いようとしたにしても、あなたは神に逆らうことはできない。それなのに、どうしてあなたは、あなたの抵抗の弁解をしたり、それを正当化したりすることができるはずがあろうか>。

 

  • <このような神の前におけるあなたが! 彼らは神がわれわれを護る盾で、われわれ自身を神から、神のいつくしみから、まもろうとする盾を造ろうとしている。それこそ、19節における問いの根本的な無意味さなのである>(バルト)。

 

  • <神は、そのすべての道の根源と目標としてのイエス・キリストにおいて、人間にそのいつくしみ以外の何ものも差し向けようとはなさらない>方なのです。

 

  • このことを、私たちは見失ってはならないと思います。聖書によれば、神の御業はイエス・キリストにおいて極まったのです。イエスの生と十字架死と復活において、神はわたしたちすべてに最後決定的に関わってくださっているのです。

 

  • 20節後半―21節に記されています陶器造りの譬は、≪神はあわれもうと欲する者をあわれみ、かたくなにしようと欲する者をかたくなにする≫という18節の内容を繰り返し、確証しています。

 

  • ≪彫刻の像が制作者に対して、「あなたは何故私をこういう風に作ったのですか」などと言えるだろうか。あるいは、陶工は同じに捏ねた粘土から、一部を貴重なことのための器に、他の一部をつまらぬことのための器に作り上げる権利がないとでも≫(20節後半―21節、田川訳)。

 

  • 「何故私をこういう風に作ったのですか」という問いについて、ある人はこのように言っています。「でたらめな生活をしている子供が、そのことをたしなめられると、開き直って、なぜこんな子供に生んだのか、と言うのに似ているではありませんか」と。

 

  • この陶器師が、どんな器をつくるかは、陶器師の自由に属するという陶工造りの譬は、エレミヤ書18章にでてきますが、これは、神は<全能なる神として自分に気にいることなら何でもやるような全能の神と言ったものでなく、イスラエルの神として、イスラエルを受け入れ、また棄てることにより、双方の性格を持った器により、正しいことをなすイスラエルの神である。なぜなら、そのことが彼のあわれみを現実化し、また啓示することに役立つからである。またこのような意図を持つイスラエルの神は、無頓着な中心から、このことあのこと〔受容と棄却〕をいっしょに並行してやるのではない。神にとって神の光の証人と、人間の闇の証人を登場させることは同じではないのである>ということを示しているのです。

 

  • 22―24節は、この陶工造りの譬を、パウロが解釈しています。ここでは、「貴重なことのための器」が「憐れみの器」に、「つまらぬことのための器」が「怒りの器」になっています。そして、このように、パウロは語っているのです。

 

  • 「しかし、神が怒りを顕わし、みずからの力を知らしめようと欲して、滅びへと整えられた怒りの器を非常に気長に(我慢して)下さったのだとすれば、またその結果として、みずからの栄光の豊かさを憐れみの器に対して知らしめようとして下さったのだとすれば! その憐れみの器が栄光へといたるようにと神は前もって定めて下さったのだ。神は我々をそういう者として呼び給うたのである。ユダヤ人からだけでなく、異邦人からも」(田川訳)。

(以下は竹森満佐一『ローマ書講解説教』当該箇所を参考にする)

  • 神は、一方を尊い者に造り、他方を卑しい者に造る権利も能力も持っている方であると。そして、怒りの器に対しては、怒りを顕わされる。その点については何の容赦もない。けれども、神は、その怒りの器に対しても、それを滅びるままになさらなかったのであります。その怒りの器さえ大いなる寛容をもって忍ばれたのであります。もしもそうであるとすればどうでしょうか。怒りの器として、神の怒りを受けて滅びるような立場にある者も、忍び忍んで寛容をもって扱われるとすれば、それは、むしろ神の限りない恵みをあらわしたことになるのではないでしょうか。怒りの器にさえ示されたこの愛は、普通の場合より大きいのではないでしょうか。

 

  • これに対して、栄光にあずからせるためにあらかじめ用意されていた憐れみの器にはご自身の栄光の富を知らせようとされたのであります。そうすると、この怒りの器とあわれみの器とは、どちらが多く神のあわれみを受けたことになるのでしょうか。それを誰が判断できるというのでしょうか。パウロは、用心深く、はっきりした結論を出しません。無論、彼には、神の憐みについての確信はあったでしょう。しかし、事実にあたって言う場合には、神のなさることについて、これはこういうことであると明言することは、はばかれたのでありましょう。彼は、その堅い信仰のゆえに、神の憐みを確信しながらも、なお、神の自由をおかしたくなかったに違いありません。信仰とは、ただ神の恵みを信じることでしかないからであります。

 

  • 神の寛容とは、神のやさしいい気分のことではありません。神には動かし難い計画があるのです。ただ、神はその憐れみによって、それを猶予されるのであります。それがどうなるか、神以外には知りようがないのです。ただ、われわれは神に信頼しているのであります。

 

  • 怒りの器にせよ、憐れみの器にせよ、神の憐みが顕われるためだけに用いられるのであります。そして、それによって、神の栄光がいかに大きくあるか、豊かであるか、深くあるかが示されるのであります。言い換えれば、この憐れみのゆえに、すべての者が、神の栄光を讃めたたえるようになるのであります。その時にはじめて、事柄が理解されます。

 

  • ここまで話が進んで、にわかに話が具体的になってきました。それは、怒りの器とか憐れみの器とかというものが、現実の異邦人とイスラエルとの問題であることがはっきりしたからです。イスラエルの不平は、異邦人も救われることであり、彼らの悩みは、自分たちが、もしかしたら救われないかも知れないといおうことだったからです。それが、今は、聖書の証言によって明瞭にされるのです。

 

  • ホセアの預言(2:25)は、旧約聖書で神の言われたことして、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民でない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(新共同訳)と書いてあります。また、イザヤの二つの預言(10:22―23.1:9)は、いずれも、イスラエルにとっては、まことにきびしいことが記されています。「イザヤはイスラエルについて叫んでいる、『もしもイスラエルの子らの数が海の砂の(ように多く)なっても、残された者だけが救われることになる』。またイザヤが予告して言っているように、『もしも万軍の主が我々に種を残してくださらなかったら、我々はソドムのようになり、またゴモラと同じようになっていただろう』」。イスラエルの人々は思いとどまったことでしょう。彼らの考え方では割り切ることが難しいからです。

 

  • しかし、イエスの出来事であるキリストの十字架と復活とは、それを、だれにでも信じることができるようにしてくれたのです。ここには、神の憐みがあり、異邦人もイスラエル人も何の区別もないからであります。

 

  • 十字架は、この説明困難と思われることに大きな光を与えてくれます。それだけでなく、イエス・キリストによって、新しい、真のイスラエルが誕生したのです。それがキリストの教会です。

 

  • ローマの教会は、異邦人が主になっている教会であると言われています。しかし、ローマ書の終わりの挨拶や使徒言行録28章にあるローマの信者たちの様子を見ますと、この教会にも、少なからずユダヤ人がいたころが分かります。ユダヤ人と異邦人、この相容れない二種の人々、しかも、もっとも根本的な救いの問題において対立している人々が、教会では、ひとつになって神を礼拝することができるのであります。ここでは、だれも憐れみの器とか怒りの器とか言いません。なぜなら、みんな神の憐れみによって生きていることを知っているからであります。

 

  • 大きなことはとても言えませんが、本来、イエス・キリストの福音において教会は、現代のロシアによる軍事侵攻など必要としない人間の救いを指し示していくことが許されているし、指し示していく必要があるのではないでしょうか。つまり、イエス・キリストの福音においては、ウクライナ人もロシア人も、国家や民族の枠組みを超えた、神に造られたひとりひとりの人間として、また赦された罪びととして、共に神の憐みのもとに生きる仲間だからです。

 

  • 残念ながら、現実の世界の教会は今も分裂していて、戦争など全く必要のない、国家や民族による分断を超えたすべての人の連帯と共生を指し示し得ていません。けれども、本来の新しいイスラエルとしてのユダヤ人と異邦人によって構成されている教会は、そのことを指し示しているのではないでしょうか。

 

  • おそらく戦争の必要としない世界は、政治的な努力目標ではありますが、政治的に実現することはできないでしょう。一人一人の人間が自らの罪を悔改めて、神に信頼して幼な子として生きるようにならなければ…。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 今日は、ローマ書から、私たちの中には、怒りの器として造られた者も、憐れみの器として造られた者も、神の憐れみの恵みのもとにあることを示されました。
  • イエス・キリストの福音が示す人間の救い=解放に、どうぞすべての人が浴し、敵対と争いから解放されて、平和と和解によって生きていくことのできる世界が到来しますように、心から願います。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      413(キリストの腕は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-413.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(509)

船越通信、№509 2022年3月27日(日)北村慈郎

  • 20日(日)もローマ書の説教はバルトの引用に頼ってしまいましたが、午前6時半過ぎにその日の礼拝式及び説教原稿他をメール配信することができました。午前10時半ごろからこの日も独りで自宅分散礼拝をしました。その後ひと眠りして、午後には久しぶりに千賀のいる時によく作っていた筑前煮をつくり、夕食の副菜にしました。この日の夕食は、私の住んでいる鶴巻の近くで、最近は天気の良い土曜日の午後だけ三崎から、多分娘さんが運転する軽自動車にお魚を積んできて、その場でさばいて売ってくれる90過ぎの魚屋のおじさんから買ったマグロとぶりの漬け丼を娘がつくってくれました(以前はおじさんのお連れ合いのおばさんと二人で来ていましたが、おばさんが来れなくなって、代わって娘さんがきているのだと思われます。この魚屋さんのお魚を食べると、スーパーなどの魚は鮮度が落ちていることを実感させられるほど、新鮮で美味しいのです。しかも比較的安いのです。マグロがメインで、マグロは常時ありますが、時期によって鰺、太刀魚、かんぱち、ぶり、カワハギ、新鮮な生ワカメ等々。カワハギの刺身を肝醤油で食べるのは最高ですし、生ワカメもしゃぶしゃぶで食べると、こんなに美味しいのかと思えるくらいです)。21日(月)も休日でしたので、魚屋さんからもらっていたぶりのかまと骨の部分で、レシピを見ながらぶり大根を作りました。薄味でしたが、おいしいぶり大根を夕食で味わうことができました。私はまだレシピを見ながらしか料理は出来ませんが、料理をつくる時には集中できて、うつうつとしている時には気分転換にもなります。このようなささやかな、しかし豊かな日常が、戦争によって無残に破壊されてしまいます。今のウクライナの惨状がこの戦争による破壊の現実を私たちに突きつけています。最近國場幸太郎の『沖縄の歩み』(岩波現代文庫)を読みました。この本は、沖縄の歴史を子供向けに書かれたものですが、その内容は沖縄の歩みを深く鋭くとらえて、やさしい言葉で書かれています。目次(まえがき・凡例、一、けわしい戦争の雲ゆき、二、沖縄戦の悲劇、三、古代の沖縄と琉球王国の成立、以下続く)からも分かりますように、國場は「沖縄の歩み」をまず沖縄戦から書いています。沖縄戦の悲劇は、米軍による無差別攻撃によって沢山の住民の命が奪われたことでもありますが、同時に、自分たちを守ってくれると思っていた日本兵による住民の虐殺にあります。このような戦争による問題解決を試みる国家の犯罪をどのようにくい止めることができるのか。国連がほとんど機能していない現状において、その枠組みをどのようにしたらつくり出すことができるのか、今現在世界のすべての国々に、そしてすべての人に問われています。何とかその枠組みをつくり出さないと、ウクライナの悲劇が他の国において再現されないとも限りません。
  • 21日(月・祝)には、娘が車で、生前千賀と一緒に行ったことのある、渋沢から大倉に行ったところの、登山の降り口にある、谷間に大きな橋のかかった戸川公園と、千賀が、気があると言って好んだ場所ですが、葛葉の泉という、湧水が豊富に出る場所に行きました。葛葉の泉には小さな駐車場とトイレもあって、中には湧水をペットボトルに何本も入れて持ち帰る人もいます。この日も一人の人が20本近いペットボトルに熱心に湧水を入れていました。久しぶりに鶴巻近辺以外の自然の恵みに浴し、リフレッショできました。
  • 24日(木)18:30より寿地区活動委員会があり、委員は一部会場のなか伝道所に集まり、一部リモート参加という形で行いました。私はリモートで参加しました。昨年8月以降寿地区センターの専従は主事一人でしたので、主事からもルーティンの仕事もままならない状況なので、早急にアルバイトの働き手を入れて欲しいと要望が出ていました。ハローワークなどに求人を出したらと考えていましたが、幸いに候補者がいましたので、その人と主事が面接してきまったら、委員長が正式にその人と寿地区センターのアルバイト契約を結ぶことにしました。アルバイトの人が来てくれれば、現在の主事の過重な仕事の負担が少しでも緩和できるのではと思っています。今回の委員会は2021年度の最後の委員会ですので、講演会やボランティア交流会など次年度の計画も話し合うときなのですが、まだ新型コロナウイルス感染拡大の終息を迎えていませんので、日時・内容など具体的な計画が立てられず、もう少し様子を見ようということになりました。ただバザーについては、4月は第二土曜日(雨天の場合は第三土曜日に順延)に行うことにしました。前回開催したバザーでは、ボランティアに昼食を出さなかったことが問題になりましたが、4月も現在の新型コロナウイルス感染状況からして昼食は出さないことにしました。寿地区センターのバザーは土曜日開催ですので、私は一度も出たことはありませんが、このバザーは物品販売を通した寿住民とボランティア及びボランティア同士の交流の場という面もあるようで、参加者の委員の中にも多少のリスクはあっても昼食は出したらという意見もあります。感染症問題と向き合う中で、寿地区センターのバザーのやり方が問われているのだと思いますが、なかなか割り切れない難しさがあるようです。その他この委員会では、教区に提出する次年度の委員会名簿を確定しました。最後に委員の一人で、寿地区の訪問看護に携わっているK・Nさんから、委員会内学習会の一環として、寿地区の医療現場のお話をしてもらいました。
  • 訪問看護を必要とする様々な病気を抱えて寿地区で暮らす方々の存在を改めて知らされました。私も連れ合いの1年半の闘病中に、週に2-3回のストーマ交換をしましたが、寿にはダブルストーマの方もいるとお聞きして、認識を新たにされました。

ローマの信徒への手紙による説教(40)

3月27日(日)受難節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編27編7-14節(讃美歌交読詩編28頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章14―18節(新約286頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      298(ああ主は誰がため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-298.htm

⑨ 説  教   「神の憐れみ」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ウクライナの戦時下にあって生き延びようと必死にもがいている方々のことを思うと、いたたまれない気持ちにさせられます。早くこの戦争が終結するようにと祈っています。
  • そういう現在の状況にあって、私たちは忸怩たる思いをもって、日々生活していると思いますが、今日も、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)9章14節―18節から、語りかけを聞きたいと思います。

 

  • ここでパウロが問題にしていることは、私の生まれ育った家族のこととも、ある面で繋がっている問題ではないかと思われます。私の家族は、私だけがキリスト者になって、他の誰もキリスト者にはなりませんでした。神の選びということで言えば、なぜ神は私を招いて下さって、他の家族の者を招ねかれなかったのでしょうか。人間的に考えれば、私は他の家族の者より優れた人間だとはとても言えません。むしろ他の家族の者の方が人間としてみれば、私より優れているように思えてしまいます。

 

  • アブラハムの子孫で言えば、イシマエルではなくイサクを、エサウではなくヤコブを、今日の箇所で言えば、ファラオではなくモーセを、神は選ばれたのか。そして、人間の選びに神の招きが絶対であるとすれば、選ばれなかった者は神に棄てられたことになります。

 

  • 人間の側に神に選ばれる条件、例えばその人の意志や行っていることによって神の招きや選びが決まるとするならば、分からないこともありませんが、それでも、神に選ばれる条件を満たしている人間がいるとは思えません。事実、パウロも、旧約聖書の言葉を引用して、≪義人はいない。ひとりもいない。/悟りのある人はいない。/神を求める人はいない。/すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。/善を行う者はいない。/ひとりもいない≫(ローマ書3:10-12、口語訳)と言い切っています。

 

  • とするならば、神は気ままに人を選んだり、棄てたりするのか。そのような神は許し難い存在ではないか。≪では何と言おうか。神のもとに不正があるとでも?≫(14節。田川訳)と問われても仕方ありません。けれども、パウロは、その問いに対して、強く否定しています。≪まさか、そんなことはありえない≫(14節、田川訳)。このところは、口語訳では≪断じてそうではない≫です。

 

  • 前にも申し上げましたように、一つの問いを立て、それを否定するのは、当時のディアトリベーという弁論術と言われますが、この方法で語ることが、当時の人々には説得力があったということでしょうか。

 

  • 神が選びの自由によって、ある人を選び、ある人を棄てるのは、断じて不正でも何でもない。神の自由に属する事柄なのだというわけです。

 

  • このイサクを選び、イシマエルを棄てる、ヤコブを選び、エサウを棄てるという神の選びの教えは、予定論と言われてきたものです。ローマ書の講解説教を書いている人の中には、予定論は難しくて、よくわからないと、率直に述べている人もいます。

 

  • この予定論が示している神の選びの義(ただ)しさについて、「神はその至高性により、あらゆる事柄において、従ってあらゆる人間に対しても、神にのみ知られている理由からご自分の欲するままにふるまう権利をもっているからだと説明されることがあります。このようにただの神の至高性からの神の選びだとすると、暴君的権力者が人をえり好みするのと区別できないのではないでしょうか。予定論が難しくて、さっぱりわからないと、率直に述べる人は、神の選びが偏見に満ちた暴君的な選びだとすると、それを理解することはできないという思いがあるからではないでしょうか。

 

  • しかし、パウロは、15節で、モーセに語られた言葉を引用して答えています。≪モーセに対して神は言っている、「わが憐れむ者を憐れみ、わが慈しむ者を慈しまん」と≫(田川訳)。このことは、<人がすぐ問いたがる神の選びの義(ただ)しさは、実は神のあわれみの義しさであるという点に存するということである。神がなすこと――まさに、神がアブラハムの子たちに、さらにイサクの子たちに、かの受容と棄却(選んだり、棄てたりすること)によってなすこと――は、神のあわれみの業なのである。そして、この(選びの)業の土台は常に、神のあわれみにほかならない。あわれみも何も持たぬ、ただの至高性なら、選びをなす神と暴君的魔(デー)神(モン)とをもちろん区別できなくしてしまうであろう。しかし、神のあわれみは――そしてそれがイスラエルの歴史における問題であるのだが――神を、義にいまし給う神として示す。なぜなら、まさしく、あわれみとその行使こそが神の義であるからである>とバルトは述べています。

 

  • 16節には、そのことがはっきりと記されています。≪であるから、(それは)欲する者、走る者の(事柄)ではなく、憐れんでいる神の(事柄)である≫(田川訳)。バルトの訳ではこうなっています。≪したがって、こうなのである。すなわち問題なのは意志をもつ人間や立ちまわる人間なのではなくて、あわれむ神である≫。

 

  • 11-12節にもこのように述べられていました。≪まだ子らが生れる前に、つまり(その子らによって)何らかの善や悪がなされる前に、(すでに)選びによる神の予定が(定められていて、それが)実現するようにと、リベカに対して「長子が次子に仕えることになろう」と言われたのである。その選びは業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる≫。
  • <神の御意(みこころ)に対しては、・・・人間の決定や行動のいかなる義〔権利〕もいかなる要求も存在しない。あわれみ給う神に対して、イサクとイシマエル、ヤコブエサウは、彼らの現在と未来のあり方すべてをもってしても、ただその支配のもとに立ちうるにすぎぬ。あわれみ給う神が啓示され、また御業をなし給う所、それは初めからイスラエルに起こった如く、いかなる人間も神の先に立ちえず、またあらゆる人間は、ただ神への奉仕の備えをなしうるのみであり、受け入れられた人間も要求を持ちえず、棄てられた人間も要求を持ちえないのである。両者が要求を持ちえないのは、両者共それぞれの仕方において神の良き御意に仕えることを許されているからであり、また神が両者をそれなりに必要とし、両者を用いることを欲し給うからである。それは実に憎まれたエサウにおいても言えることなのだ!>(バルト)。

 

  • パウロは、不従順な人間をユダヤ教の会堂の人々、つまり自分の同胞に見ていたのではないかと思われます。パウロは、彼ら・彼女らは神に棄てられているが、神に選ばれた者同様に、神のあわれみの中にあって、神に必要とされ、神の良き御意に仕えることを許され、神に用いられているのだと言うのです。

 

  • 17節には、モーセに対してファラオについて、このように述べられています。≪すなわち書物(聖書)はファラオに対して言っている、「まさにこのことのために汝を興したのだ。汝によって我が力を示し、我が名が全地において告げられるために」≫(田川訳)。エジプトの王ファラオは、モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民にとっては、最も悪しき迫害者であり、敵であります。現在のウクライナの人々にとってのプーチンのような存在です。そういうファラオも、神の力が示され、神の名が全地に告げられるために興されたのだと、聖書を引用してパウロは言っているのであります。

 

  • ただパウロは、この17節に続けて、18節で≪であるから、神はみずからが欲する者を憐れみ、みずからが欲する者を頑なにし給うのである≫と言って、ファラオは神によって頑なにされた者だと言っているのであります。

 

  • <神は、モーセに身を向け給うことによって、そのあわれみ自体を生かす力として啓示しようとされたのだとすれば、パロ(ファラオ)に身をそむけ、彼を神に対しかたくなにさせ、頑固にさせ、心をとざすようにさせることによって、神のあわれみが何人にも負っていない彼のあわれみであるという別の面、すなわち、人間の死――それなくしてあわれみは存在せず、それゆえ真実のあわれみともならないであろう――〔の面〕を啓示しようとされるのである(18節)>(バルト)。

 

  • つまり、バルトによれば、パウロは、ファラオによって、彼は確かに神によって命与えられた人間であり、神の憐れみの対象者であるが、ファラオは、神に対して頑なな者として神の憐れみの別の面、すなわち、人間の死を体現しているのだと言っているのです。

 

  • そしてバルトは、<神はかしこにおいて、パロ(ファラオ)と欲したように、今日、不従順な会堂を欲したもう。パロ(ファラオ)と同様、不従順な会堂もまた、神のあわれみの業として明らかにされねばならぬし、また事実、明らかにされるであろう。このあわれみの業はこの場合、従順な教会に少しも劣るものではない>と言っているのであります。

 

  • 確かに私たちの中には、イエス・キリストの福音を信じ、神に従順な者として生きていこうとしている者たちがいます。一方神など信じないで、自分の力を頼りに生きていこうとする人もいます。世俗的な現代の社会では、神を信じないで生きている人が、圧倒的に多くなっています。かつての宗教的な時代とは違った、現代は神無き時代です。しかし、聖書は人間の営みとこの世界を神の視線から見ている神の言葉です。

 

  • その意味で、今日のローマ書の個所を神の言葉として受け止めようとするならば、ファラオのような自己中心的な人間の不従順は、神によって人間の死の面が啓示されているのだという、バルトの解釈もなるほどと思えてくるのであります。私たち人間の営みの中に、神の救いと裁きの現れを読み取っていかなければならないということでしょうか。

 

  • ローマ書6章20節以下に、こう語られています。≪あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義に対して自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたは今は恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです≫(6:20-23,新共同訳)

 

  • 「罪の奴隷」は不従順な者、「神の奴隷」は従順な者を意味すると思われます。「罪の支払う報酬は死です」ということを、心に銘記したいと思います。私たちは神に招かれて、「神の奴隷」となった従順な者として、永遠の命に至る実りとしての愛と平和と和解に生きる者でありたいと切に願います。

 

  • 主が私たちに、その実りを結ぶことができるように、豊かな命の力を与えてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、まだ新型コロナウイルス感染が治まってはいませんが、今日は久しぶりに会堂での礼拝を再開することができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、たくさんの人の命を奪い、生活基盤を破壊する戦争から、私たちはまだ解放されていません。日々メディアを通して伝えられるウクライナの惨状に悲しみと怒りを覚えていますが、世界の現実はこの戦争を止めることができません。
  • 神さま、どうか戦争を止める力を私たちに与えてください。この戦争で苦しむ人々を支えてください。
  • 神さま、どうか私たちが軍事力に頼らない、人権と平和が大切にされる民主的な世界をつくり出すことができますように、知恵と力を与えてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      442(はかりも知れない)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-442.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(509)

船越通信、№508 2022年3月20日(日)北村慈郎

  • 13日(日)もいつものように午前6時半ごろ、この日の礼拝式および説教原稿他をメールで配信しました。それからしばらくしてから、早めでしたが、自宅分散礼拝を独りでしました。
  • この週は15日(火)夜に支援会の世話人・事務局会がZoomであるだけで、一週間どこにも出かけずに過ごしました。連れ合いが帰天してからの2年間、ちょうど新型コロナウイルス感染拡大の時期でもありましたので、特に沖縄との関わりについては、行動はもちろん思考においても停止状態でした。神奈川教区では、2019年11月23日に「沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同50年を憶えて、合同の実質化を目指す集会」を、常置委員会主催、宣教部委員会、沖縄交流委員会、「合同50年」実行委員会協力で開催しました。この集会には、私も提案の段階から関わり、「合同50年」実行委員会の一員として働きました。その後この集会の報告集を作りましたが、その作業にも関わり、確か2020年の2月には報告集を発行しました。それから2年間ということになります。2月の末に「沖縄の米軍基地を撤去し、教団『合同のとらえなおし』をすすめる連絡会」(もとすす)の関西にある事務局の方々から、私がこのもとすすの世話人代表ということで連絡を受け、もとすすもこの2年間何もしてこなかったので、会員の方々にはそのことを説明・お詫びすると共に、これからどうするかを考えようということになりました。そこで私もこの2年間何もして来なかったことを反省し、少なくとも考えることから取り組んでいきたいと思い、この2週間で3冊沖縄関係の本を読みました。その中の一冊が鹿野政直の『沖縄の戦後思想を考える』(岩波現代文庫)です。この本からは、改めていろいろと教えられましたが、何よりもこの著者の姿勢に感動しました。この本の「はじめ」と「むすび」の中からそれぞれ一節を引用させてもらいます。
  • 本書の表題との関連で、「はじめに」の中で著者はこのように述べています。「‥‥そもそも思想とは何か、について、一言しておきたいと思います。/導きとするのは、先年亡くなった文学者であり思想家でもあった岡本恵徳さんの、『思想というものが、わたしたちの外からあたえられるのでなく、いわば、わたしたちが状況にかかわる中で、状況にどのようにたちむかうかという、主体的な機軸となるものであり』という言葉です。‥‥ここで主題とするのは、論理の体系といったものでなく、ないしそうであるよりは、『状況にかかわる中で、状況にどのようにたちむかうか』という営為として、かたちづくられていった思念の魂たちです。/しかしこの作業も、わたくしには、一種の戸惑いをもたらさずにはいられません。なぜなら作業は、状況への緊張感を漲らせて燃えさかっている心奥の情念、いまの時点から整序するという手続きとならざるをえませんが、その過程で、動態は静態化し内面は外面化して、本来その思想を脈打たせていた生命力を干からびさせるのではないかとの矛盾を、微力の致すところとして、避けがたく思われるからです。この点も押し切ることにします。/ということで、やっと主題に到着しました」。そして主題の展開しているのです。
  • 「むすび」では、沖縄学の父と言われる伊波普猷に触れて、「伊波は、絶筆とされる『沖縄歴史物語――日本の縮図』(沖縄青年同盟中央事務局、1947年)を、自己決定の問題に深くこだわりつつ、こう結びました。刊行されたとき、伊波はすでに世を去っていましたが、よく知られるようになっている文言です。『地球上で帝国主義が終りを告げる時、沖縄人は「にが世」から解放されて、「あま世」を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る、と一言附記して筆を擱く』。/この場合、『帝国主義』という言葉は、暴力的な覇権主義、あるいは覇権体制を意味していたのであろうと思います。それにたいして、わたくしたちはどうのように向きあってゆくべきかという課題を、この言葉は突きつけています。とともに、『にが

世』を克服し『あま世』をめざす動きは、そうした暴力主義的な『帝国』の観念の対極に、辺野古の海で始められている、とも受けとっている次第です」。

  • 鹿野政直は、辺野古新基地建設に反対する辺野古の運動を、帝国主義的な暴力が支配する「にが世」を克服して、「あま世」(平和で一人一人の人権が大切にされる世界?)

をめざす動きとして見ているのです。私たちには「本土」にあって、辺野古の運動につらなる課題が与えられているのではないでしょうか。現在のウクライナの問題を突き付けられています私たちは、ウクライナの人々への支援と共に、そのことが求められているのではないでしょうか。

  • 15日(火)16:30より支援会の世話人・事務局会がZoomで行われました。この日の主な課題は4月2日(土)13:00-15:30紅葉坂教会で開催します、支援会第9回総会の準備でした。当日の資料の確認、受付、司会、報告の担当者の確認などをしました。私はこの会が終わってから、当日世話人代表として挨拶を何時もお願いしています関田先生と今回講演を引き受けて下さった元住吉教会のM牧師に電話をして、改めて確認のお願いをしました。新型コロナウイルス感染については、まん延防止特別措置は21日(月)以降には解除すると思いますが、まだ感染者数が高止まり状態ですので、紅葉坂教会からも人数を50-60人に制限するように言われています。2年以上前に早稲田奉仕園スコットホール(早稲田協会)で開いた第8回総会も今回の制限人数くらいでしたので、多分大丈夫だろうと思っています。
  • その他、年度末になりますので、教区に出す報告などをまとめなければなりませんので、委員長をしているオリエンテーション委員会開催日を、メールで各委員とやりとりして、4月6日(水)19:00―Zoomで開催することにしました。また、寿地区活動委員会の毎月の委員会の議題(案)の原稿を、現在私が作って委員長と主事が修正確認の上、委員会当日の議題にしていますので、この週にはそれも作って委員長にメールで送りました。
  • 17日(木)には、私も原告の一人になっています安保法制違憲訴訟が横浜地裁であり、この日に判決が出ることになっていましたが、出欠を出す時期が新型コロナウイルス感染拡大のピーク時でしたので、私は欠席にしました。

ローマの信徒への手紙による説教(39)

3月20日(日)受難節第3主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   11(感謝に満ちて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-011.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編31編8-14節(讃美歌交読詩編32頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙9章6-13節(新約286頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      433(あるがままわれを)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-433.htm

⑨ 説  教    「神の選び」     北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • ウクライナで行なわれている戦争で、日々命を落としている人が多くなり、大変な苦しみの中にある人々のことを思う時に、私たち人間がこの戦争を止めることができないことに、無力さと共に憤りさえ持ってしまいます。ただ、このような現実の中で、難民に壁を作って拒否するのではなく、国境を開いて受け入れる国々があること、多くのNGO、ボランティアの人々が、ウクライナのこの戦争による被害者を支えようとして力を尽くしていること、ロシアに住む人の中からも反戦の声を挙げ、行動する人が出てきているということなどは、私たちに希望を与えてくれています。このロシア軍のウクライナ軍事侵攻という現実の中で、私たちができることをよく考え、行動していくことができればと願っています。

 

  • そのような現在の状況の中で、ローマの信徒への手紙(以下ローマ書)からどのようなメッセージを与えられるのか。その問いを持って、自分自身このローマ書からアップトゥデイトなメッセージを読みとれるだろうかとの思いをもちながら、毎週日曜日の説教に取り組んでいます。
  • さて、今日はローマ書9章6節―13節から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。
  • パウロは、9章1-5節で、自分もその一員であるイスラエル人の神への不従順を、自分自身の「大きな悲しみと絶えない痛み」(2節、クランフィールト訳)でると告白し、≪実際、私の肉による同族の兄弟たちのためなら、私自身は呪われた者となってキリストから離されてもよい、と願ったほどである≫(3節、田川訳)と述べていました。

 

  • そのようにパウロが同胞イスラエルの不従順に対する彼自身の思いを語った後、9章6節以下でパウロイスラエルの不従順の問題について、11章までの3章に渡って諄々と語っていきます。

 

  • イスラエルは神によって選ばれた民です。その民が神に対して不従順であるわけです。ならば、神の選びはどうなるか。イスラエルを選んだのは神ご自身ではなかったか。神のこの決断は間違いだったのか。当然イスラエルの不従順から、そのような神への問いが生じます。
  • それに対して、パウロは、先ず6節前半で、≪決して、あたかも神の言葉が失墜した(新共同訳は「効力を失った」、口語訳は「無効になった」)などということはない≫(田川訳)。つまり、イスラエルを選んだ神の選びという神の言葉は、イスラエルの不従順によって無効になったなどということはない、とパウロは断言しているのであります。

 

  • 9章6節後半以降、パウロイスラエルにおける神の選びについて、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブエサウの物語を引き合いに出して語り、11節、12節ではこのように述べています。
  • ≪まだ子らが生れる前に、つまり(その子らによって)何らかの善や悪がなされる前に、(すでに)選びによる神の予定が(定められていて、それが)実現するようにと、リベカに対して「長子が次子に仕えることになろう」と言われたのである。その選びは業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる≫(田川訳)。

 

  • ここでは、このようなことが述べられているのではないかと思います。つまり、神が、兄のエサウではなく、弟のヤコブを選んだのは、二人の母親のリベカがまだ二人を出生する前であった。そのことは、神の選びは、「業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる」と。

 

  • ですから、イスラエルの不従順は否定的な人間の業績と言えますから、もし神の選びが「業績の結果生じる」ならば、イスラエルの不従順によって神の選びも無効になってしまうことになります。パウロは、そうではなく、神の選びは、「業績の結果生じることではなく(人を)召し給う神から生じる」と言っているのであります。

 

  • バルトは、『ローマ書講解』(いつも長い引用をしているのは、『ローマ書新解』からですが)の今日の箇所のところで、シュラッターの言葉を引用してこのように言っています。<「神はあなたのためにあなたを助けるのではなく、神みずからのために助ける」(シュラッター)。かれがこれとちがった目的のためにあなたを助けるなら、それはあなたを全然助けているのではない。あなたを助けているのは断じて神でない>。

 

  • 私はこの言葉を読んだとき、最初何を言っているのか、すぐには理解できませんでした。私たちにとって助けとは、私たち自身のための助けであるという前提で、バルトの言葉を読んでいたからです。けれどもバルトの言葉は、そうではなく、神は神自らのために私たちを助けるのだと言っているのです。そして、そのような助けこそ、私たちの本当の助けになるのだと言っているのだと思います。

 

  • 少し横道にそれてしまったかも知れませんが、≪決して、あたかも神の言葉が失墜した(新共同訳は「効力を失った」、口語訳は「無効になった」)などということはない≫(田川訳)に戻りたいと思います。

 

  • ここでもまた、バルトの言葉を紹介したいと思います。『ローマ書新解』によりますが、このローマ書の「神の言葉」について、バルトはこのように述べているのです。<…神の言葉、イスラエルにも与えられ、いや根源的にそして真先に、まさしくイスラエルにこそ与えられた福音(バルトは「神の言葉」を「福音」に置き換えています)は、福音に対するイスラエルの不従順によって消滅したり、宙にういてしまったり、力がなくなってしまうのではなく、むしろ福音は、この不従順な者が存在することにおいても、それなりのやり方で、強化されていくのである>(下線北村)。

 

  • 上記下線部分を、くり返し確認していただきたいと思います。そしてバルトは「不従順ということの意味」について、このように述べているのであります。<不従順ということの意味は、‥‥不従順な人間が、福音における神のよき業から排除されているように、また福音によって人間に向けられている、神の讃美に積極的にあずかるということからも排除されているということである。しかしそのような排除は、神の言葉の成就、福音の業に属する>。人間の不従順は神の言葉である福音の業から排除されていることによって、福音の業に属しているというのです。

 

  • 例えば今ウクライナに軍事侵攻しているプーチンのような福音に不従順な人間には、福音における神のよき業から排除されていることが、彼に語りかけられている福音なのだと言うのです。ただテレビでプーチンが十字を切っている所作をしているのを見たことがあります。彼はロシア正教会員であるようですが、現在のロシアのロシア正教は体制とべったりの関係にあるようで、イエス・キリストの福音を人間の都合の良い安価なものにしていると思われます。聖書の語る福音は、「神はあなたのためにあなたを助けるのではなく、神みずからのために助ける」(シュラッター)ものですから、その福音からすれば、プーチンは福音に不従順な人間としか言いようがありません。もちろん、私たちも不従順な人間であります。

 

  • バルトはこう述べています。<われわれが1-8章で実にはっきり聞いてきたように、福音は人間を全面的に神から排除する。すなわち、福音は人間を全面的に不従順な者として特徴づけ、さらにそのようなものとして彼を中に引き入れ、また肯定し、そのようなものとしての彼に、神の賜物と課題を示すのである>と。そして<彼がイエス・キリストにおいて殺され、またイエス・キリストにおいてのみ、死人の中から甦らされること、それがあらゆる人間に向けられた神の言葉の内容である。われわれは、排除された者を見る時、どのような場合にも福音の外に排除された者としてではなく、福音自体によって排除された者と考えるべきである。‥‥それは排除のためではなく、包含のためなのであるが、とにかく、そこではこの排除がなされる>。

 

  • 福音における不従順な者の排除は神の裁きです。不従順な者は福音によって徹底的に裁かれ、一度古い自己中心的な自己が殺されなければなりません。そのように一度福音によって死んだ者が、神に従順な者、すなわち福音にふさわしい人間として生きていくことができるのです。それが、福音における排除と包含です。

 

  • <誰が彼を排除し、これを迎え入れるのか。それをなすのは、どちらかの良い、または悪い意志ではなく、殺し、また生かす神の言葉、初めからイスラエルの希望であり、しかしまさにそれゆえに、イスラエルの裁き主でもある、神の憎みと愛の言葉である(13節)。この言葉がどちらの場合も最高度に支配する。この言葉は神の自由な憫(あわ)れみの人格的な言葉である。そしてそれゆえに、その言葉がどこに宿ろうとし、どこに宿ろうとしないか、歴史の中でどこにその起源を持とうとし、またどこで持とうとしないかは、その言葉自体が決定するのである。それゆえにすべての父祖の歴史の中から、受容と棄却の二重のしるしがある。それは同じ言葉であり、そこで起こることは、どちらの場合も同じ言葉の確証なのである>(バルト)。

 

  • その言葉とは、肉となったイエスではないでしょうか。イエスはこの世で見捨てられた者の友となることによって、この世の支配者を裁いたのではないでしょうか。この世の支配者はイエスを十字架につけて殺しましたが、神はそのイエスを復活させてこの世の支配からの勝利を私たちに告げているのではないでしょうか。

 

  • ≪決して、あたかも神の言葉が失墜したなどということはない≫(6節a、田川訳)。神の言葉(=福音=イエス)に信頼して、今ここでの状況に向かい合って、私たちに先だって歩んでおられる主イエスに従って生きていきたいと思います。

 

  • 主がその私たちの歩みを支えてくださいますように!

 

祈ります。

  • 神さま、今日もまた、コロナウイルス感染拡大により、会堂での礼拝を持てませんが、メール配信による自宅分散礼拝を持てますことを心から感謝します。来週からは会堂での礼拝を再会したいと思います。
  • 神さま、あなたはイエス・キリストの福音によって、私たちの不従順を裁き、私たちを救うことによって、イエスの仲間として、私たちをあなたに従順な者として生かそうとしてくださっていることを覚え、心から感謝いたします。
  • 御心ならば、私たちをそのような者として、今この余りにも暴力的な世界を生きていますが、互いに愛し合う世界の到来をめざして、この暴力的な世界にのみ込まれることなく、この世界に抗って生きていくことができますように、その命の力を私たちに与えて下さい。
  • ウクライナでの戦争の終結を心から祈ります。また先週には福島沖で大きな地震があり、亡くなった方もあり、被害も多く出ています。そのために今苦しんでいる人々を、あなたが支え、適切な支援の手が速やかに行きわたりますように祈ります。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌      504(主よ、み手もて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-504.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。