なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(54)【53と54は逆です】

「恐れない」 マタイによる福音書10:26-31

             2019年10月13(日)船越教会礼拝説教

 

  • お昼に「やすらぎの里」というテレビドラマがテレビ朝日で放映されています。脚本は倉本聰が書いています。やすらぎの里は高級老人ホームで、そこに入所している人々の日常が描かれているのですが、その入所者の一人に石坂浩二が演じる脚本家がいて、彼が書く「その作品は山梨のとある山間の(小野ケ沢という)村の養蚕農家を舞台に、戦前、戦後を生き抜いた無名の夫婦の出会いから亡くなるまでを、1936年から現代に至るまでの80年間に渡る壮大なスケールで描くもので、テーマは"ふるさとの原風景"。物語は養蚕農家の四男・公平の13歳の少年時代から始まり、また、物語上の重要な場所として満州が出てくる」(ウキペディアから)というものです。そのドラマ(やすらぎの刻〈とき〉―道)が、劇中劇のように、老人ホーム居住者の日常生活を描くやすらぎの里の中に挟み込まれて、描かれています。詳しい話をここですることはできませんが、その家族を中心に日本の民衆が、戦中と敗戦直後の時代に、日本の侵略戦争に翻弄される姿がひしひしと伝わってくるドラマです。お昼の食事時に観るには、このドラマは厳し過ぎてふさわしくないのですが、戦時下の人間ドラマでもありますので、観なければならないと思って観ています。このドラマを観ていて、かつての日本の戦時下を、ひとりの人間として人間性をしっかりもって生きる厳しさ、戦争を遂行する国家権力の恐ろしさを、改めて思わされています。
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  • このドラマの主人公の一人、根来公平には兄が3人いるのですが、次男は海軍航空隊を志願し、ガダルカナルの戦闘で戦死してしまいます。三男は徴兵の赤紙が来たとき、彼自身思想的影響を受けて戦争を否定していましたので自死を選びます。公平にも赤紙が来ますが、彼はわざとトラックの車輪に自分の足を引かせ、自分が障がい者になって徴兵を逃れます。長兄は兄弟の中では最後に徴兵されるのですが、戦地に行って、無地帰還しますが、人殺しをしたことに苦しみます。この根来4兄弟の徴兵に対する姿勢は四者四様ですが、戦争の恐ろしさを際立たせています。

 

  • 先ほど司会者に読んでいただいた、マタイ福音書の個所は、弟子派遣という文脈において、イエスが弟子たちに≪人々を恐れてはならない≫(マタイ10:26)と語っているところです。わたしたちの心と体は、どんなときにも神によって守られている。たとえ、だれか悪い人が、わたしたちのいのちを奪ったとしても、魂まで滅ぼすことはできないのだ。神のすばらしさ、やさしさ、正しさは、けっして隠しておくことはできない。必ず人々の前にあらわれ、明らかにされる。これが、今日のマタイ福音書の個所におけるイエスの教えです。

 

  • 1933年、ヒットラーがドイツの首相になりました。ヒットラーは、まもなく、まわりの国に戦争をしかけました。そしてユダヤ人を憎んでいたヒトッラーは、国中のユダヤ人をつかまえ、収容所という牢屋に入れました。ただ牢屋に入れて捕まえておくだけではなく、ガス室に送り込んで殺すためです。そのようにしてヒットラーユダヤ人を600万人も殺したと言われています。

 

  • ユダヤ人たちは、危険を感じて、何とか身を隠そうとしました。そのころ、ドイツに住んでいたユダヤ人のオットー・フランク一家4人も、オランダのアムステルダムに逃げ延びました。そして、見つからないように別の家族と一緒に表通りに面した倉庫と事務所の裏にある秘密の住まいに隠れていました。フランクにアンネという娘がいました。みんなそこに隠れて生活していた間、アンネは神を信じ、戦争が終わり、平和がくることを願いつづけていました。

 

  • そして両親から13歳の誕生日の時にプレゼントしてもらった日記帳に、毎日見聞きしたことや、自分の思いを書き始めました。しかし、隠れはじめて2年目に、とうとうドイツの秘密警察(ゲシュタボ)に見つかり、収容所へ一家全員が送られました。アンネはお姉さんのマルゴーと一緒にベルゲンベルゼンという所に送られ、まもなくそこでなくなりました。そのとき、アンネは16歳でした。

 

  • そののちドイツが戦争に負けて、ユダヤ人たちは自由になりました。無事に生きのびて帰ることのできたお父さんのオットーは、アンネがつけていた日記を見つけました。アンネが隠れ家で生活する間にどんな心で生きていたか、それを読んではじめて知り、とても心を動かされました。アンネは、人間はみんなよい人で、いつか平和なすばらしい世界がくること、そして自分が死んでからもなお、神さまとともに生き続けることを望み、信じていました。

 

  • お父さんは、アンネの日記を本にしてみんなに読んでもらおう、と決心しました。「隠れ家」という題で出版されたその本は、たちまち世界中のベストセラーになり、多くの人がアンネのことばに深く感動したのです。
  •             (以上は、松浦謙『神さまのこどもたちへ』から)
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  • アンネ・フランクは、今日のマタイ福音書の個所のイエスの言葉を、文字通り素直に信じて生きた人ではないでしょうか。私たちにいのちを与えてくださり、毎日を生きることをゆるしてくださっているのは、神です。私たちは神によって支えられ、生かされているのです。

 

  • しかし、この事実を私たちは感じられなくなっているのではないでしょうか。

 

  • 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛まで、一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:29-31)。

 

  • 自分の命をこのように神に与えられ、神の配慮の下にある命であることを、私たちはアンネ・フランクのように、素直に信じているでしょうか。その素直な信仰を失ってしまっている自分が、大人の私たちにはあるのではないでしょうか。

 

  • 私たち人間の生産性が、第一次産業のように自然の条件によって決定づけられている場合には、人間の無力さをひしひしと感じさせられることが多いのではないかと思われます。農業や牧畜、林業のような産業は、気候に左右されますから、雨が降らないと困るわけです。第一次産業で生きていた古代人は、飢饉に苦しんだのです。

 

  • しかし、産業革命以降の現代社会は、人間の発見した科学技術によって、自然の条件に左右されないで生産性を上げるようになっています。その過剰さが、自然環境の破壊を生み出しているのが現代社会です。台風19号も温暖化がもたらした自然現象と考えれば、人間の技術は自然の条件を克服した半面、逆に自然の驚異によって苦しむ結果となっているとも言えるでしょう。

 

  • いずれにしろ、技術の力というパンドラの箱を開けてしまった私たち人間は、その技術を手放すことはないでしょう。そういう技術による資本主義社会では、そのスキルを持った人間は高収入を得て、農業社会と同じように労働力だけを売るしかない人は低収入に甘んじなければなりません。政治が高度福祉社会をリードできればともかく、そうでなければ資本が政治をも支配し、持てる者はますます持ち、持たざる者はますます貧しくなっていく弱肉強食の社会にならざるを得ないのです。1990年にソ連邦が崩壊してからは社会主義の国も資本制を取り入れていますので、今は資本主義国家も社会主義国家もほとんど変わりません。

 

  • そういう社会に生きています私たちは、幼子のような素直さだけでは生きていけませんから、自分を守るために自分に力をつけようと努力します。そのため大人になるにしたがって、幼子のような素直さはどんどん失われてしまいます。

 

  • それが私たちの現実の姿ではないでしょうか。ですからアンネ・フランクは素晴らしいと思いますが、私たちはそうはなれないと、諦めてしまいがちなのではないでしょうか。

 

  • けれども、キリスト者が、大人が形成する社会の中で、同じ大人として自らの信仰を貫いていこうとしても、それは無理です。キリスト者が、大人が形成する社会の中で、その信仰を貫こうとすれば、自分の幼子性を大切にする以外に道はありません。

 

  • エスも「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と語っています。

 

  • 関田先生が映画の寅さんを評価しているのも、寅さんの中の幼子性がキリスト者のあるべき姿を指し示しているところがあると思われるからではないでしょうか。寅さんを評価しておられる関田先生は、ご自身寅さんのように生きておられるように思います。

 

  • キリスト者の幼子性は、真に恐るべき方を恐れる信仰から生まれてくるものではないでしょうか。今日のマタイ福音書の個所に、≪体は殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われています。

 

  • 今日はこの言葉を深く心にとどめたいと思います。そして、真に恐るべき方の前にアーメンと首(こうべ)を垂れて、その幼子性を失うことなく、私たちの日常を生きてい行きたいと思います。