なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(54)

7月17(日)聖霊降臨節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  6(つくりぬしを賛美します)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-006.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編52編3-9節(讃美歌交読文57頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙12章9-13節(新約292頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

 

⑨ 説  教  「偽りのない愛」      北村慈郎牧師

  祈  祷

  • パウロは、今日の個所であるローマの信徒への手紙(以下ローマ書)書12章9節以下で、教会に連なるキリスト教徒のこの世における具体的な日常生活を、こまかく勧告によって、指導しようとしているように思われます。

 

  • 9―21節における勧告は、教会のすべてのメンバーに等しく当てはまるものです。9-13節では、パウロは、主に教会の交わりである仲間のキリスト教徒たちとの関係に焦点を当てて勧めを語っています。14-21節では、主にキリスト教徒たちの、教会の外の人々との関係を焦点に勧めを語っています。そこで、今日は、前半の9-13節に記されています、私たちがキリスト教徒として同じ仲間の他のキリスト教徒たちとの日常生活をどのように送ったらよいのかという倫理的勧告に耳を傾けてみたいと思います。

 

  • まず9節前半に<愛は偽善ではない>(田川訳)と言われています。この「愛」はギリシャ語原典ではアガペーという語が使われています。ローマ書のこの箇所までのところでは、「愛」という名詞は神の愛に関してのみ用いられてきました。しかしここではこの名詞はキリスト教徒が仲間に負うている愛について用いられています。しかし、この9節前半での「愛」(アガペー)によって、仲間のキリスト教徒たちのみに対する愛が考えられているのか、それとも教会の外の人々をも対象に含む愛が考えられているのか、この点についての明確な指示はありません。しかし、10節前半の「キリスト教徒たちの間に固有の、特に密接な親愛の情」を示す「「兄弟に対する愛(フィラデルフィア)」から見れば、9節前半の「愛」は教会の外の人々をも対象に含む広義の「愛」に言及していると見るのがより適切であると思われます。そうであれば、10節前半の「兄弟たちに対する〔あなたがたの〕愛において、互いに優しく愛し合いなさい」は、9節前半の繰り返しではなくそれを踏まえた上での発言として捉えることができるであろうからです(クランフィールド)。

 

  • ここで「偽りなき(もの)」と訳出したギリシャ語形容詞をパウロは愛に関係して二回使用していますが(この9節と二コリ6:6)、この事実は彼が愛には欺瞞そしてより深刻な自己欺瞞の危険があることを知っていた、ということを示します。カルヴィンの註解はその点を鋭くついています。「ほとんどすべての人々が、実際には持っていない愛を装うことにおいていかに巧妙か、ということを言葉で表現するのは難しい。彼らは彼らが疎んじているだけでなく、実際は拒絶している人々を真に愛していると自分たち自身に思い込ませる[信じこませる]、そしてそれと同時に彼らは他の人たちを欺くだけでなく彼ら自身をも欺く」。ですから、以下の点を認識することはきわめて重要であります。愛していないのに愛していると自分自身に信じ込ませた人は、愛していないことを知りつつ愛している振りをする人よりも、他の人たちにとって加えてまたその人自身にとってもはるかに危険であるということです。

 

  • それにしても、「愛」についてひとこと言うのに、「愛は偽善的ではない」とのみ言うのは、逆説的に理解すれば、さすがにパウロ、人間たちが「愛」と呼んでいるものがいかに偽善であるかをよく知っている、ということになろうか(田川)。

 

  • 愛の問題にすぐ結びつくものとして、「悪を憎み退け」(田川訳)と言われています。愛においてもっとも困難なことのひとつは、愛と正しさとが結びつかないことです。正しさを求めれば、愛し得ないし、愛を求めれば、正しさを得られない、ということになり易いからです。愛は生きることであります。だから、正しいか正しくないかは、愛にあらわれます。そこに、愛が正しさと結びつき、あるいは、悪と結びつく理由があるのです。

 

  • 悪を憎むという、この憎むは、恐れて逃げる、あるいは、恐れて身を避ける、という意味であると言われます。悪と訳されているのは邪悪という字です。私たちはほんとうに邪悪を憎んでいるでしょうか。悪ほど魅力のあるものはありません。悪がよくないことは、だれでも知っています。それなのに、私たちは悪に引きずられることがあるのではないでしょうか。そういう人間の弱さを踏まえて、悪を恐れて逃げる、あるいは、悪を恐れて身を避けるという意味で、「悪を憎み退け」と言われているのです。

 

  • それにつづいて「善には親しみ結び」(田川訳)と書いてあります。親しみ結ぶという字は、糊で貼りつける、という言葉だそうです。善の方に自分の身を寄せて、もう離れないように、ぴったりと貼りつけるように結びつけてしまう、ということです。私たちが悪に負けてしまうのは、悪の誘惑の強さもさることながら、逃げ出さなかったことも、悪かったと思います。しかし、もうひとつは、いかにも、善と正しさとに結びつくことが弱かったのではないかと思われます。善と手を握っている程度では駄目なのです。糊で貼りつけられたように、離れないようになっていなければならないのであります。もしも、悪に引きずられたら、皮がさけ、肉がちぎれるほどに、結びついていなければならなかったのです。死刑にならねばならないような罪を犯した人も、その結果がどうなるかが分からなかったわけではなかったでしょう。しかし、誘惑に抵抗し得なかったのです。意志が弱かったとか、環境が悪かったとかいうこともありましょう。しかし、一番重要なことは、悪と善との間、寒空の下にひとり立つような孤独な戦いをして、敗れたのではないかと思います。何かにつかまえられたように、善に結びつく、いや貼りつけられるような確かさがなかったのでしょう。主イエスを信ずる生活は、主の救いの恵みによって、善に結びつけられてしまうのです。それは、ただ、善を愛するというような奇麗事ではなく、キリストを愛し、神に愛される生活、さらに正しく言えば、キリストに愛され、神に愛される生活であります。その時、われわれの戦いは、われわれひとりの弱い戦いではなくなるのであります。
  •  

・ <兄弟愛をもって互いにつくしみ、尊敬をもってお互いをたて、>(10節、田川訳)

 

  • この文句は、教会のメンバー同士に相応しい家族の間におけるような思いやりのある心のこもった親愛の情を命じます。「兄弟」という言葉をそういう宗教の信奉者たちを指して使う用法は、古代世界ではキリスト教徒たちに特別のものではありませんでした。しかしキリスト教徒たちが使用する場合には、この語は福音に由来する特別な意味・内容を含み持っていました。福音は隣人愛に関連して理解を超えた・超越的な重大事を、すなわち困窮し助けを必要としている他の人の中に人の子(キリスト)自身が不思議なことに存在しているという事実を明らかにしました。私が自分以上に私の仲間のキリスト教徒を尊ばなければならないのは、(確かにすべての私の仲間たちの場合同様)彼の中にキリストが私のために存在しているからにほかなりません。このことは偽って語ったり、振りをすることと何の関係もないのです(クランフィールド)。同じことを別の人はこのように言っています。「教会の中で出会う相手は、いつも、この人のためにも、自分のためと同じように、キリストが死んでくださったのである、ということであります。したがって、その相手は、兄弟と言ったらいいのか、あるいは、それ以上と言わねばならないのかも知れません。それは、尊敬といっても、キリストの死のゆえの尊敬であり、愛するというなら、キリストの死のゆえに愛することができるのです。ただ、兄弟、というような言い方では、説明がつかないと思います」(竹森)。

 

  • <熱心において怠慢であってはならない。霊によって燃えなさい。主に仕えなさい。希望において喜びなさい。患難において耐えなさい。たゆまず祈り続けなさい。>(11-12節、クランフィールド訳)。

 

  • 神に対する信仰のあるところには、神に対する望みがあり、そのゆえに、忍耐をもって、真に謙遜に、しかし、もっとも強力に戦うことができるのであります。謙遜な戦は、弱い戦いではありません。そのために祈りが必要なのです。カルヴァンは、弱い人というものは、常に祈ることなしには、自分を強くすることはできないと申しました。『常に』というのは、そのことに専念するということであります。それは、絶え間なく祈っているというよりも、いつでも祈ることのできる用意がある、ということであります」(竹森)。

 

  • <聖者の中の欠乏している者たちに交わりをなし、よそ者の世話を続け、>(13節、田川訳)

 

  • パウロの時代においてはキリスト教徒の共同体の大部分の人々は非常に貧しかったに違いありません。そういう者たちに「交わりをなし」とは、「実質的には経済的な援助を意味しているのであろう」(田川)と言われます。「現代においては欧米のキリスト教徒たちはそれぞれが所属する国の豊かさを大いに共有し、また貧しい国においてはキリスト教徒たちは多くの場合彼らの地域社会・共同体の比較的貧しくない人々の中に含まれています。そしてこの事実は次の点を支持しているように思われます。現代においては聖徒たちに対する救援という特別の要求はより控えめになされるべきであり、むしろキリスト教徒であるかそうでないかということにかかわりなく、人間[人類]の困窮という最も重大な問題に対する救援の必要がよりいっそう強調されなければならない」のです。

 

  • <よそ者>は、新共同訳(=口語訳)では「旅人」と訳されていますが、<よそ者>は、確かに旅人も含まれますが、もっと広い概念で、市民権を持っていない人(ないし市民権を持っている人の身寄りでない人)。つまりその町に定住する資格がないから、一時的な滞在者扱いされる。旅人、季節労働者、亡命者、等々。貧しい者を助け、病人や身寄りのない者の世話をし、宿のないよそ者に宿るところを世話し、というのがこの時期においてすでにキリスト教徒の基本的なあり方となっていたことがわかります。
  • 福音が生きる場所は、教会であります。それは、教会の外に関心がないということでもなければ、まず、教会において、足固めしようということでもありません。そうではなく、教会をつくることが、信仰生活の具体的な形だからであります。今朝、私たちが読んだところに記されているような教会をつくるのであります。ですから、教会生活は、決して単純ではありません。多くの人の生活が、この中に持ち込まれるからであります。その上で、そのひとりびとりが、ここで、もっとも正直に、生きていこうとするからであります。人間の目の届くところではなく、神の目の前で生きようとするからです。/しかし、また、教会生活は、実に単純であります。これは、主のからだをつくるためにあり、主のからだに連なることをのみ目的とするからです。その力は、主から与えられる恵みだけだからであります(竹森)。

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 新型コロナウイルス感染がまた急拡大しています。日常生活への行動制限が緩和されて、私たちの行動が自由になると、ウイルス感染が拡大します。そのことは、感染している人と感染していない人が区別されていないので、人の交流が密になると感染が拡大することを示しています。そのために、人の交流を抑えると、経済生活で苦しむ人は増え、人の交流を自由にすると、ウイルス感染が拡大するというジレンマに、私たちは陥っています。このことの解決は、検査の拡充によって感染者を隔離する以外にありません。為政者が速やかにその道を選ぶことができるように導いてください。
  • 神さま、ウクライナでのロシアの軍事侵攻が一向に止まる気配がありません。ロシアもウクライナも軍事力による問題解決に立っているからだと思われます。それでは、どちらかが力尽きなければ、この戦争は終わりません。そのためにどんなにたくさんの人の命と生活が破壊されることでしょうか。神さまどうか、話し合いによる問題解決の道を開いてください。世界の国々は、ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって、軍事力による安全保障へとなびいています。そうではなく、話し合いによる世界平和の構築に希望をかける国が多くなりますように、神さま導いてください。
  • 今生活苦の中にある人びとに支援がいきわたりますように。様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   532(やすかれ、わがこころよ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。