なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(58)

8月14(日)聖霊降臨節第11主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  12(とうときわが神よ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-012.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編94編8-15節(讃美歌交読文104頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書   ローマの信徒への手紙13章11-14節(新約293頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    509(光の子となるため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-509.htm

⑨ 説  教   「夜は更け、日は近い」            北村慈郎牧師

  祈  祷

  • 多くの人は、慣性の法則というか、その人のルーティン化した日常を、それほど深く考えることもなく、流されるように生きているのではないでしょうか。そのような人間の生活って何なのでしょうか。この地上に生まれて何十年かの生活をおくるのですが、それが何のためであるのかが分からないまま生きているのではないでしょうか。その間には、言いようのない苦しみもありますが、また一方には喜びもあるので、それに気がまぎれて、何となく一日一日を過ごし、やがては、否応なしに、肉体の死によって、この生活が終わるのであります。そういう生活をしたからといって、誰も文句を言うわけではありませんから、それをつづけているだけであります。ただ、時々立ち止まって考えたり、しばしば困難や苦しみに押し止められると、この人生が何のためにあるかと考えざるを得なくなって、言いようのない空しさに襲われるのであります。その空しさが息苦しさとなってその人を襲うようなこともあるに違いありません。このような人には、生きている時間は毎日の繰り返しに感じられているのではないでしょうか。そしてその日々の繰り返しが、いつか自分の死によって終わる時を迎えるというという漠然とした感覚をもって、その日その日を生きているということなのではないでしょうか。

 

  • しかし、ローマの信徒の手紙12章1節以下には、イエス・キリストの福音を信じた者はどういう生活に入るのかということが示されていて、私たち信仰者が日々の生活を生きる意味と目標がはっきりと記されているのであります。12章1節、2節では、「あなた方の身体を、神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として捧げるがよい。それがあなた方が(神に)仕える理性的な仕方である。此の世にあわせた形をとらず、精神の刷新によって自らを作り変え、神の意志が、すなわち聖なる、神に喜ばれる、完全なことが何であるかを、自ら検証できるようにしなさい」(田川訳)と勧められているのです。
  • パウロは、この12章1節、2節で、イエス・キリストの福音によって生きる者の生活の基本的な方向性を示して、12章3節以下で、イエス・キリストの福音によって生きる者の生活は、何よりも自分もその一員であるキリストの体である教会における生活であることを示します。信仰生活は、何よりもキリストの体である教会を形成する生活になるということです。しかし、それが、13章では教会が存在するこの世のすべての人との生活について語り、13章8節―10節では、教会の中にもこの世界の中でも通じる信仰生活である愛のことを語るのです。愛の生活は信仰生活全体の冠であります。その意味で、12章1節から語ってきたことは、愛の生活を語ることによって、一応ひとつの区切りになるわけです。しかし、こうして一通り話し終えて、今日の13章11-14節では、全体についてもう一度言わねばならないことがあると言うのです。それは、信仰者の生活の特徴は、ひとつは、「あなた方の身体を、神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として捧げるがよい」という勧めに示されており、もう一つは、終わり(目標・完成)から生きるということです。終わりの日に神の前に出ることを考えに入れる生活であります。それが終末論的に生きるということです。今日の個所で語られていることは、信仰者の生活は終末論的な生活であるということです。

 

  • 13章11節は、田川訳のように「そしてこれは」(カイ・トウート)という句が最初にきています。「これ」は、以上述べたこと(8-10節)、つまり「愛こそ律法を満たすもの」ということを指すのは確かです。「あなた方は時を知っているのだから、このことはますます妥当する」といった感じで、「そしてこれは」と最初に語られているのではないかと思われます。
  • ここに「時を知っている」と言われていますが、時を知るとはどういうことでしょうか。この「時」は原語ではカイロスという語です。カイロスは、「特別な時、決定的な時、チャンス、好機、危機というニュアンスを含意する時」であります。これは神の時と言えます。ですから、「時を知っている」ということは、今は神が定めた時であるということを知っているということです。
  • 「時を知る」ということを、時代の動向を見分けるという意味で受け取る人もいるかも知れません。人々の知らない情報を持っていて、真相はこれだという人のように、です。昨日の平和集会で講演してくださった講師は、時代の動向を見分けることにおいて優れている人でした。
  • ここでパウロが語っていることは、それとは違います。神のイエス・キリストにおける救いの出来事から私たち人間の生活を知ることです。初代教会の信仰者にとって最も重要なことは、十字架にかかり復活して天に昇った主イエスが、いつ来られるかということでした。主イエスが来られることが分かっていれば、自然に自分たちの生活の仕方が違ってくるのであります。その再臨の主イエスにお会いした時に、恥ずかしくない生活をしていたいという思いを強く持って生きていくことができるからです。そのような人こそ、自分の「身体を、神に喜ばれる、生ける聖なる犠牲として捧げ」尽くすような生活をするようになるだろうと、パウロは言っているのであります。
  • ですから、パウロは、「時を知っている」者こそが、今まで語られたような生活を一層熱心に励むことは当然でしょうと言っているのであります。パウロは、「あなた方が時を知っているからである」に続けて、さらに「すなわちあなた方がすでに眠りから覚める時が来ている。今や我々の救いは、以前我々が信じた時より近づいているのだ」と語っているのであります。

 

  • ローマ教会の人たちはそのような決定的なカイロス、終わりの時、救いの完成の時が差し迫っている、今が目覚めるべき時であることを知っている、とパウロは言うのです。それは初代教会の終末が間近に迫っていると語ってきた終わりの時であるが、しかしパウロにおいては、単に切迫しているが未だ到来していないという時ではありませんでした。それはイエス・キリストの死と復活においてすでにこの世界に突入し、キリストの御霊によって現在している、そして個々の信徒はバプテスマを受けて(つまり信仰を告白して)以来その霊の支配下に置かれている、その意味で将来に約束された救いが彼らのキリスト教的生の営みの中ですでに始まっている、将来が現在に希望として先取りされているそのようなカイロスであったのです。しかしパウロは肉の体を蔑視した熱狂主義者のように、彼らは魂においてすでに復活している、完全な救いにあずかっているとは考えませんでした。むしろ「今や、わたしたちが信仰に入ったことよりも、救いは近づいている」(11節c)と、考えたのです。「洗礼の時以来過ぎ去ったすべての時間は宇宙大にわたる終局的〈救い〉ソテリアに向かっての歩みである」(ケーゼマン)。だからこそ今は「眠りから覚めるべき時」と考えたのであります(川島)。

 

 

  • しかし、現実の生活はどうでしょうか。パウロは、1章18節から32節の間に、当時の異邦人たちの生活、つまり、世界の一般的な様子を克明に書きつづっています。特に29節以下にはこのように語られています。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値は思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています」(1:29―31、新共同訳)。13節の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」(新共同訳)ということも、当時の世界のことを書いたものでしょう。「これはまさに、夜のように暗い生活であります。まばゆいばかりの光の下で行われているかも知れませんが、夜の闇であります。考えてみれば、まことに、夜はふけたという感じです。夜はふけ、やがて朝が近づいた時の暗さを知っている人にはよく分かるのです。夜明けが近い時には、夜は一層くらく暗く感じられます。もう朝が来ないのではと思うほどです。すると急に明るさが見えてくるのです。夜の生活は長く続きました。この混乱と堕落、もう光は来ないのではないかと思われるほどであります。しかし、夜は暗ければ暗いほど、朝は近かったのです。罪の世界は、神が支配していなかったわけではないのです。罪の世界を忍耐をもって忍んでおられる神は、朝をおくられるのであります。/救の約束は嘘ではなかったかと思われるような生活がつづきました。信仰者はいつもそういう絶望を感じるのです。周囲の世界を見ていれば、そうとしか言いようがないのです。しかし、突如として、天からの声のように、夜はふけ、日は近づいている、という言葉が聞こえます。いや、救いに対する神の確かな保証が、この声を聞かせるのであります」(竹森)。

 

  • 「夜はふけた。昼間が近づいた。だから我々は闇の行為を脱ぎ、光の武具を着ようではないか」(12節、田川訳)。昼間の生活につてテサロニケの第一の手紙5章7-8節にこのように書かれています。「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎みましょう」(新共同訳)。このテサロニケの言葉からして、パウロが「光の武具」と言うのは、「信仰と愛と希望」です。テサロニケでは「身を慎みましょう」と言っていますが、このローマ書では「昼間におけるように、姿よく歩もう」(田川訳、新共同訳では「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」)と言っています。「姿よく」とか「品位をもって」とは、ぶざまではないように、形を整えて歩こうというのです。夜は寝間着姿のようにだらしないところがあるが、昼はそれではいけない、形を整えていなければならないということでしょうか。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」という悪徳との闘いは容易ではないので、「信仰と愛と希望」をもって、自らを武装して、はじめて、見られる形になるような闘いであると言うのでしょう。

 

  • このことをもっとはっきり言えば、「あなたがたが、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(14節、口語訳)ということになります。「洗礼を受けてキリストに結ばれた者は、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:27、新共同訳)と言われています。「洗礼を受けるのは、キリストがわたしの身代わりになってくださったことを受け入れることであります。キリストは、全くわれわれを被いつくし、しかも、われわれの身にぴったり合った衣になって下さるのです。外からわれわれを見る者は、今は、キリストしか見ることができないのです。身丈に合ったこの衣を着ているわれわれは、それによって、全く自由に、自分の生活をすることができるようになるのであります。/キリストは、われわれの晴れ着であります。晴れ着を着て、どぶさらいをするものはいないであろう、と言った人がいました。これは、晴れ着であるとともに、最も強固な武器であります。われわれが負けた時には、立ち上がらせてくれる武器です。これを着ては、肉の欲だけを満たす生活に向かえないでありましょう。それは、むしろ、そういう生活から、いつも、われわれを守ってくれるからであります」(竹森)。

 

  • そういうところが、多かれ少なかれ、私たち信仰者にはあるのではなでしょうか。今の時代に「キリストを着て生きる」信仰者の生き方を確かなものにしたいと願わざるを得ません。主がそのように私たちを導いてくださいますように!

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、昨日は平和集会で「沖縄の復帰50年」を覚えて、前泊博盛さんからお話を伺い、改めて国家を超えた人と人とのつながりの中で分かち合うことの大切さを学びました。今日の聖書からは、個々人の罪と悪からの解放によって、人は助け合う愛の生活に導かれることを改めて教えられました。
  • 神さま、私たちが個人の生活においても、他者との関係においても、キリストに倣って生きていくことができますように、私たちのその力を与えてください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。病の中にある者に癒しの力をお与えください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌    403(聞けよ、愛と真理の)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-403.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。