なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

多数決の罠

エスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)という、神の国を宣べ伝える宣教の働きにおいて、一人一人の心に訴えかけられた。無理やり信じさせようとはされなかった。そんなことが出来るとは、はじめから思わなかっただろうし、またそのような方法(洗脳だとか数の暴力)を最初からとらなかった。ご自身の振る舞いと言葉をもって、イエスは人々に神の国の宣べ伝えをなさった。

昨日民社党の代表を決めるので、小沢一郎と管・・・が一日中テレビのニュース番組にゲストとして出ていた。二人の発言を聞いていて、二人の資質の違いを感じた。小沢一郎は善かれ悪しかれ伝統的な政治家である。一方管   は大分伝統的な政治家の資質を養ってきてはいるが、元々市民運動家として政治に関わり始めた最初の自分の在り様を、今も濃厚にもっている。

その点で二人の話を聞いていて、テレビの視聴者である私には、管の話の方が分かりやすかった。小沢一郎は直接視聴者に直接訴えるという方法ではなく、選挙で選ばれた議員の間での話し合いと意思統一を最重要視しているように思えた。小沢一郎にはその手腕があるから、今でも彼に期待する人々がいるのだろう。小泉純一郎のようなパフォーマンスは小沢一郎には殆どない。

どちらが政治家としてよいのか、私には分からない。多分理想的には両方備わっている人がいいのだろうが、なかなかそのような人はいないだろう。

今回テレビで小沢一郎の発言を聞いて、今までの金と権力による派閥政治の小沢一郎というイメージが少し変わった。それは、話し合いを大切にして多数決は最後の手段だという民主主義の原則を繰り返し語っていたからである。もし談合のためではなく、政治理念やそれを実践していく戦術などの話し合いを十分して、一つの政治理念やその実践方法を共有するための話し合いを、小沢一郎が大切だというならば、私もそう思う。

エスは人の心に訴えた。多数決で人を動かすという方法は、最初からとらなかったように思う。教会では教勢(人数)の拡大を伝道の成果と考える考え方があり、私の所属している日本基督教団でもその考え方は支配的だが、人の心に訴え、人を動かす真実がなければ、数の多さだけでは意味がないと思う。