なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

赦しと許し

連休中です。みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は遠出はせず、出かけても近場で少しのんびりと過ごしています。でももうすぐ連休も終わりです。

キリスト教信仰の中で神の「赦し」は中心的なメッセージです。このことに信仰者は誰も異存はないでしょう。ただ多くの信仰者の中には「赦し」を「許し」というように誤解しているところがあるように思います。神は人間が何をしようが何でもかんでも許してくださる方だという風に。大変人間の側からすれば、都合のよい神です。ヨーロッパのキリスト教世界では「機械仕掛けの神」という言葉があって、人間の都合に合わせて何でも答えてくれる神のことを言います。

このような神の赦しの誤解が、時にはキリスト教界の中で世間では考えられない非常識がまかり通ることにもなっています。例えば私の属する教団で牧師のセクシュアル・ハラスメントを被害者が裁判に訴えるということが起こりました。一審、二審とも有罪で、二審で結審し被害者に賠償金が支払われました。裁判は結審しましたが、被害者は心的外傷を受けて、今でも傷が癒えていません。

この種の事件が学校や会社で起きた場合、加害者は免職乃至は解雇になるのではないでしょうか。ところが私の所属する教団では、加害者の牧師にただ戒告という注意をしているだけです。加害牧師は今も事件を起こした教会で牧師を続けています。

世間から見れば、こんなことはあり得ないことでしょう。宗教界(キリスト教界)には自浄能力がないのかと言われています。

この種の甘さは、きちっと人間の行為を裁くことができないために起こってくるのだと思います。クリスチャンは人を裁くのではなく許す(赦す?)べきだという安易な信仰からくるのでしょう。

私は「服従のない神の恵みは安価な恵みであり、高価な恵みは服従のある恵である」というボンフェッファーの言葉を大切にしたいと思っています。