なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

無為の生

★高校生からの質問 Part4★
自尊感情はどのようにすれば育つのでしょうか。最近、私は自分のことがどうでもよくなっていて、何をするのも面倒に感じます。自分の中に自尊感情が芽生えないと、これから自分がどうなるのかさっぱり分からなくて、ちょうど、これが、今の私の最大の悩み事でもあります」。

私は主題講演の中で、1995年に起こった大阪道頓堀川「ホームレス」殺人事件の被告青年ゼロについて、北村年子さんの本に基づいてお話ししました。その時青年ゼロには自尊感情の欠如があるということもお話しましたので、この質問はそのことと関連しています。

私は以前北村年子さんの講演を聞いて、手塚千砂子さんの主宰する「自己尊重プラクティス協会」を知り、娘に勧めました。今も娘はこのトレーニングを続けています。自己尊重感をもつための具体的な手立てとしては、手塚千砂子さんの理論と実践は大変役立つと思っています。(http://homepage1.nifty.com/tezuka/index2.htm

私はキリスト教の牧師ですから、私なりに言えることは、こういうことです。それは、悩む自分を捨てて「無為」の人になるということです。

悩む人は知らず知らずのうちに自分が中心になって、ああだ、こうだと考えてしまっているのです。ですから意識が過剰になって、いつの間にか体が萎縮してしまっています。体が萎縮して血液の循環が悪くなったりしますと、生命活動が退化してしまいます。それが講じますと、石のようになってしまいます。石は風をその体内に通すことはできません。さわやかな風が吹いていても、無関係です。

もしかしたら、あなたは自分が自分の人生の主人公だと考えていて、どうしたらよいのか分からずに悩んでいるのではありませんか? 自然の中に自分を置いて、ちょっと目を閉じて、深呼吸をしてみてください。そして考えることを止めて、感覚を研ぎ澄ませてみましょう。風が吹いていますか。鳥は鳴いていますか。空には雲が浮いていませんか。遠くの山の稜線はどんな形ですか。

自然と一体の自分を感じてみましょう。自分は、自分はという自己へのこだわりが溶けていきませんか。

私たち人間は、自分が生きているというよりも、何かに生かされて今を生きているのではないでしょうか。ある意味で徹底して私たちの生は受身なのです。受身であるということは、私たちを生かさせてくださる方(「神」)がいらっしゃるということでしょうか。

無心に遊ぶ幼い子どもたちは、生かされて生きる喜びを無意識に体全体で表しているように思われます。そのような幼子に見習って、生かされてある自分を発見できたら、私たちも自ずから生きていることの感謝と生きる喜びを感じることができるのではないでしょうか。