なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(16)

 田中美津の『いのちの女たちへ~とり乱しウーマン・リブ論~』という本があります。昨日のブログでは 福島の詩人の方で和合亮一さんという方のことを書きました。「被災地福島を詩で記録する」作業に取り組んでいる方です。この方の場合、言葉にこだわっています。しかし、田中美津は、「とり乱しこそ、あたしたちのことばであり、あたしたちの生命そのものなのだ」と言います。
「いま痛い人間は、そもそも人にわかりやすく話してあげる余裕など持ち合わせていないのだ。しかしそのとり乱しこそ、あたしたちのことばであり、あたしたちの生命そのものなのだ。それは、わかる人にはわかっていく。そうとしか云いようのないことばとしてある。痛みを原点とした本音とは、その存在が語ることばであり、あたしたちの〈とり乱し〉に対して、ことばを要求してくる人に、所詮何を話したところで通じる訳もないことだ。コミュニケートとはことばではなく、存在と存在が、その生きざまを出会わせる中で、魂を触れ合わせることなのだから! 〈わかりやすい〉ということと〈出会っていく〉ということとは、まったく別の事柄だ」。
和合亮一さんもすごいと思いますが、田中美津もまたすごいひとです。
さて、以下「父北村雨垂とその作品(16)」を掲載します。
 
父北村雨垂とその作品(16)
 
春のつれつれや 小説と書いて 消す
おんなは ひとり 体臭は 緑 濃し
 
ひらひらはなびら くるしいといふ おんな
この恋や 梅雨の晴間に 月をみて
おんなの推理と 辯明のほほえみと
悲しきまでに 男はたちつくす 夕陽
春終る おんな ひとりの旅に出る
 
黄金は名工だ 美男 美女
どん底に影 友達ずらり 背を向けて
腹の底から こみあげた 孤獨な笑ひ
胃袋が哄笑した 悲劇の舞台だよ
楽譜は 女の足である 終車
 
てのひらにおどる 髑髏の 五粒ほど
おとことおんな ともに孤獨を 抱いて寝る
鈴のある猫の横死を ひょうひょうと 野犬
父のなみだは白い 子のなみだは赤い ある日
のしかかる絶壁 引きこまうとする絶壁
 
樺美智子 の死        一句
 
父は黙り 母は哭く 祭壇の白い思想
 
 
鼡賊その波に いのちおどる灯だ
生きろといふ 友達の古い 端書
ふるさとをみるまなざしで 空虚 ( くう )をみる
 
箒の跡の 楽譜だよ 落葉
新聞が ばさり 太陽は 人格だと想ふ
砂浜に 気まぐれな風 マチスも 気まぐれ
革命の怒涛だ 亡命の砂だ 渚
武士某の 塚も消えたよ ブルトーザ
 
「ひなた」
 
ひとなき風景を 戦へる国の 陽だまりに
陽だまりに 落葉語らず 子も語らず
濡れえんに 大根 閑として 陽を浴びる
冬陽 さんさん 子等は何をか 爭えり
強情に見ゆ 老婆婆 冬陽を背に浴びて
ここに すみれ咲きたるを 一月にみたり
 
 
【1960年の安保の反対運動のデモが、文化人、学生を中心に国会前に押しかけたとき、機動隊とぶつかり、樺美智子さんが亡くなりました。上記「樺美智子の死、一句」はそのときのことを句にしたものと思われます。もう半世紀も前になってしまいました。この50年間にどれだけ日本の社会が平和と人権を重んじる民主的な社会なったでしょうか。忸怩たる思いを抱く人は、私だけではないでしょう。】