なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(31)

 今、神奈川教区のオリエンテーション委員会主催、基地・自衛隊問題小委員会、核問題小委員会共催の「原子力空母の危険性」(ビデオ上映と講演)と基地見学の集会を終えて、鶴巻に帰ってきました。ビデオ上映と講演は、横須賀で活躍されています呉東正彦さんという弁護士の方がしてくださいました。首都圏に近い横須賀を母港化している原子力空母ジュージ・ワシントンの2基の原子炉が事故を起こしたらどうなるか、想像するだけでも恐ろしいことです。その安全性については米海軍側の言い分だけで、日本の側が点検することは一切できない状態にある現在、それを変えていくには市民の側から問題にしていかなければならないと、呉東さんは熱い思いで語られました。その後昼食を取り、会場のヴェルクよこすか(勤労福祉会館)から三笠公園に移動し、猿島行きの船着場からチャーターした船に乗りました。横須賀で米軍基地反対の市民運動を続けておられる方に基地の建物や停泊している艦船について説明していただいて、米軍基地と海上自衛隊の基地を案内してもらいました。参加者の一人が言っていましたが、米軍の艦船より日本の艦船の方が明らかに新しい感じがしました。しかも日本の海上自衛隊の艦船の方が数も多いのです。日米軍事同盟が横須賀では現実のように思われました。ジョージ・ワシントンが神奈川新聞の記事で8月末に横須賀に帰ってきたと見ていましたので、横須賀に停泊していると思っていましたが、9月末に横須賀港を出て行ったようです。
 この集会の準備をオリエンテーション委員会委員長として、また、横須賀の船越教会の牧師として、私がほとんど準備をしましたので、50名弱の参加者があり、無地終了することができたので、今はホットしています。戦争に繋がる基地の問題。原子力事故の危険性など、私たちの命と生活に密接不可分なこの問題を宣教の現場で問い続けていきたいと思います。
 
  さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(31、復刻版?)を掲載します。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信 31 2000・ 4・30発行)
 
 前回の「通信」にありました24日のボンフェッファ-の言葉について、一人の姉妹が以下のような発言を「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」でしました。
 自分の時間を自分で計画して何かをやれたときに自由を感じる。けれども、他者から押しつけられたときは、なぜ自分がやらなければならないのかと思ってしまう。また、電話をかけてきた方に対して、相手の言うことをゆったりと聞けない自分を感じることがある。相手の言うことを聞くよりも、自分の言いたいことをバシバシ言ってしまったりする。人が思いのままにやれる自分の自由ということではなく、ボンフェッファ-は「他者の自由」ということを語っている。「他者の自由」を自分はどれだけ考えていたのか、ボンフェッファ-の言葉から反省させられたと。
 彼女が問題にしたボンフェッファ-の言葉を再録しておきます。
 「われわれが本質とか、個性とか、素質として理解しているものはすべて、他者の自由のうちにあるものであり、たといわれわれの忍耐を極度に要求するような弱さや奇行すら、他者の自由のうちにあるのである。また、わたしと他者との間にある多くの摩擦や対立や衝突を惹き起こすようなものすべて、他者の自由に属するものである」。
 ボンフェッファ-の言葉は難解で、理解できないものも多いという「通信」の読者からの感想が寄せられています。反面心に響く言葉もあるようです。分からないときには、分からないままでいいのではないでしょうか。何かの機会にその言葉が心に響くようになるかも知れませんので。
 また、もう一人の姉妹が、最近召された彼女の友人Kさんについて話しました。
 Kさんは40年前、二番目の赤ちゃんを身篭もったときにリュ-マチになり、最初の4、5年は何とか自分のことはできたが、その後は全くベットでの生活を続けた。6年前に夫を事故で亡くすまで、ありとあらゆる病気によいと言われることをやったが、効果がなかった。夫が亡くなってからは信仰一筋に生きた。3人の男の子と女の子1人をベットの上で育てた。その中の一人の男の子は医者になった。その子は小学1年生のときに、母のおむつを誰よりも上手に、母が痛がらず取り替えることができた。その子が高校のとき、大学に行きたいと言った。親戚一同の反対があったが、母だけ賛成して、横浜市大医学部に入った。私はそのとき、彼に、いい医者になるわ、と言った。医学部卒業後、大病院を経て、七沢リハビリ病院にいたとき、母を入院させリハビリに努めた。彼女の教会の牧師は、長い間K姉の病の癒しを祈ったが、神のみ心は彼女の病を癒すことにはなかったと語られた。Kさんのところには親戚や子どもたちが集まり、最後まで和やかに過ごされた。彼女は本当に心配りのある方だった。信仰一筋に生きた姉妹は、これからも教会の中で語り伝えられてゆくだろう、と牧師が葬儀で語った。自分も棺に花を入れさせてもらったが、40年間家の外に出ることなく過ごした彼女の顔は、見たこともないような美しさだった。私はその場に導かれて、彼女の葬儀に参列させていただいたことを、今でも心に強く残っている。自分自身の信仰を考えさせられた姉妹に、心から感謝したいと思うと。
 私は、彼女の話を聞きながら、もう40年前に亡くなった自分の母のことを想い出していました。母も亡くなる前の4年ほど寝たきりでした。神は病を癒すだけではなく、病を負って生きる道も、私たちに与えられるのでしょう。