なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(73、復刻版)

 年末年始が入って遅れていますが、そろそろ私の日本基督教団における戒規免職処分を不当とした、免職決定の無効と正教師の地位確認と慰謝料請求の裁判がはじまるのではないかと思います。昨年の11月半ばに支援会を立ち上げ、みなさんに正会員、賛助会員、献金・カンパのお願いを出し、12月3日には紅葉坂教会で裁判支援の発足集会を開きました。発足集会については、キリスト新聞(12月25日発行)にその様子が記事になっています。支援へのお願いには多くの方々から応答をいただいています。

 発足集会で私の裁判支援の世話人代表をしてくださっていますS牧師は、教団は聖餐について、「・・・教団としては現段階における原則的見解を明らかにしてくださると共に、新しいあり方についての研究討議の場を設定していただきたく切望いたします。・・・(もし北村牧師の)聖餐式執行に問題があったとするならば、教団として厳重注意をするとしても、免職という処分は余りにも行き過ぎであるというほかございません」とおっしゃっておられます。現代において教義に関する問題で組織としての教団としてできることは、S牧師の言われることまでではないかと思います。教会は現実の社会より遅れているところがあり、封建的な遺制を残しているところがあるように思われます。私の戒規免職処分は中世の教会の宗教裁判と内容的には同じで、世が世なら私は火炙りになっていたのではないかと思います。裁判を通して教団がイエスの福音にふさわしい一人一人の人権を大切にする教会となるように努めていきたいと願っています。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(73、復刻版)」を掲載します。
 
           
          黙想と祈りの夕べ  (通信 73[-21] 2001・2・18発行)

 先週一人の兄弟から絵本『わすれられないおくりもの』をいただきました。死の受容の一つのあり方を物語っている絵本です。年老いたあなぐまが死んで、悲しむ他の動物たちが、あなぐまがそれぞれに遺してくれた思い出という贈り物によって、それぞれの悲しみが癒されるという物語です。私は昨日、今日と姉の葬儀に出ました。一昨日に入院して、その日の夜11時ごろ発作が起き亡くなってしまいました。この姉は私とは母違いで、私が小学校4年生の時に結婚し、姑、小姑の3人いる家族の一員として、また夫との関係も仕える妻として、現在フェミニズムの運動の中でよく言われる自己実現ということからすると、自分を殺して役割に生きた女性だと思います。72歳の生涯でしたが、晩年はリュウマチに苦しみました。彼女は強いられた状況の中で、ある種の達観をもって生き抜いたように思います。私にとっては、これからもこの姉の存在と彼女の人生は対話の中で生き続けるでしょう。一人の人の死は、上記の絵本のように思い出という贈り物として死を超えて次の世代の人に引き継がれて行くことを思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が思わぬ形で自分が関わることになった二人の姉妹について話されました。自分の上の子どもを担任してくださった先生に亡くなる前に呼ばれて、二つのことを頼まれた。一つはその先生の葬儀を仏式で出して欲しいこと。もう一つは先生の二人の弱さをもつ妹を頼むということだった。弱っている先生を前に、出来ないとは言えなかった。それから8年が過ぎたが、その時は予想できなかったほど、二人の妹さんは自立して、ここまでくることができた。現在彼女たちが65歳、62歳になって体力的にも衰えてきたので、介助の面の道もつけなければならなくなって来た。自分としては、できるだけ本人の望みにそうようにしたい。けれども、社会的にはさまざまな矛盾があって、厳しいことも多い。社会的制度を利用し、周囲の人の力を借りで、新たな10年を歩めればと願っている。

 また、一人の兄弟は、自分の身近な人に起こった不幸について語られました。一人の後輩は、去年連れ合いを亡くし、自分も脳腫瘍で2年前手術してよくなっていたが、12月に再発し亡くなった。もう一人の後輩は、実家が火事で兄と二人の小さな子どもを残して、兄の連れ合いが焼け死んだ。慰める言葉がないと。続いて、今日の説教に触れて、自分自身の信仰が問われているということは、示唆に富んでいる。プロテスタントの教会にも組織集団中心というところがあり、中にはそれゆえに分裂も起こる。日本人である我々には集団主義的なところが強く、組織の中で美しく役割を果たしていくことを美徳とするところがある。戦後の経済発展も、戦時下の時も集団主義であった。組織集団の中で個人の信仰がどこまで許されるのか。自己を問い、自分は一体何者なのかを考えることによって、組織集団との間に緊張感をもち、強烈な批判はできないとしても、組織集団に対する醒めた態度はとれるのではないかと。

 一人の姉妹からは、さまざまな不幸や不条理による他者の死が、残された者のそのような他者との対話において、死者の復活があることを信じるという発言がありました。また、もう一人の姉妹は、戦死した兄や他のすでに天上にある人たちのことが、今思い出された。このようなことははじめての体験である。すでに亡くなった人たちを偲ぶことの大切さをしみじみと感じていると言われました。