なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

人に感動を与える教会を創造するには、Sさんから

 今日は今朝早めに鶴巻を出て、正午には船越教会に着きました。今日の午後に横浜キリスト教書店の方がヒィムステイションを船越教会に搬入してくださることになっていますので、何時もより早めに船越教会に来ています。現在船越教会は、昨年4月以来私が牧師として働くようになってから今後の船越教会の在り方を模索しています。その過程でテーマ話し合いを持っていますが、このテーマ話し合いのことでこの度みなさんにアンケートを出しました。そうしましたら、Sさんから文書で応答がありましたので、そのSさんの文章をご本人の了解のもとに私のこのブログに掲載させていただきます。

  北村慈郎 様                         H.S.より

 『聖書の真実』を宣教することによって人に感動を与える教会を創造するには、どうすればよいのでしょうか。

 パウロの信奉者であった13世紀のドイツの宗教家M.エックハルトは、常に「我が苦悩こそ神なり、神こそ我が苦悩なり」と唱え、『神の慰めの書』に、「すべての己の意志、己の希望を満たす人は歓喜に恵まれる。かくのごときは、その意志と神の御意志とが決然として合一せる人のみ能くするところである。願わくば、我々にこの合一を与え給へ、アーメン」と述べています。
 『聖書』は、根源の一者、神との合一、神への帰還を、わたくしたちの生の最終目的としています。この合一がキリスト教霊性なのでしょう。キリスト神秘主義を考えるとき、〈生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである〉パウロの言葉、宗教を宗教たらしめる固有の特質が、この辺にあるのでしょう。それはキリスト教だけではなく、親鸞にも禅にも通じる消息なのです。親鸞でいえば、他力の本願に身をまかせるという消息、禅でいえば、心身脱落という消息なのです。人間の主体は抜け落ちて、宗教的実在がその抜け落ちたところを充たすという消息なのです。一般に「神秘主義的」といわれる宗教性なのです。神秘主義とは、人間主体と宗教的実在合一を説く立場なのです。このような神秘主義的な消息を保持しないものは、「宗教」の名に価しません。福音は宗教一般に解消されませんが、宗教性をもたなければ福音とは言えないのでしょう。パウロはキリストと合一しているのです。パウロの人間的主体が抜け落ちて、キリストがパウロの内に充たしているのです。パウロの人間的主体は「十字架につけられ」て「死んだ」のです。福音はここでそのような神秘主義的宗教性を展開しているのでしょう。

 〈わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じることによって、生きているのである〉。

 パウロ人間性は単純に「抜け落ちて」いるのではありません。「わたしがいま肉にあって生きている」と言い切っているのですから、パウロの人間的主体は固有に実在しているのです。したがって、パウロがキリストと「完全に」合一しているとは思えません。神秘的消息は「未完結的」なのです。その意味では、禅よりも親鸞の方がパウロに近いのです。でも、親鸞からパウロを区別するのは、「わたしのためにご自身をささげられた神の御子」という言葉なのです。「ご自身をささげる」というのは、むしろ「ご自身を捨てる」と訳すべきなのでしょう。十字架の上で自己自身を犠牲として放棄したキリストを語っているのです。さきに「十字架」という言葉が出ていたことを想起されるのです。キリストの十字架の死は、罪人として起こった出来事なのです。神と直接的に合一できないような否定的な固有性~神への反逆~をもっているからこし、そのような人間の救いのために救い主の自己放棄という 犠牲が払らわれたのです。いきなり神と合一できるような人間なら。神は彼を「苦もなく」愛することができたのでしょうが、神に反逆するという否定的な固有性をもつ人間は、神によって「苦もなく」愛されるようなものではなく、「苦を通して」のみ愛されるのでしょう。これが十字架の苦痛のもつ意味なのです。「わたしを愛して」とパウロが言うとき、それは「苦もなき」愛ではなく、苦を伴う愛なのでしょう。

 〈死がひとりの人によって来たのだから、死者の復活もひとりの人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになったのです〉。このような見方を「ローマの信徒への手紙」から適応すれば、「このようなわけで、ひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」は、神に不従順であったアダムの罪は、単に彼自身に死をもたらしただけではなく、すべての人に死をもたらすことになった、と説いているのです。「すべての人が罪を犯したからです」としていますから、すべての人に死をもたらした原因は、ただアダムだけにあるのではなく、すべての人自身が犯した罪も関係してくる、と述べているのです。

 イエスの死は、復活と切り離しても意味のある出来事あり、それが「我々の罪のために」と表現されています。イエスの死は、「我々の罪のため」でした。人の罪がイエスを十字架につけたのであって、人の罪はイエスとともに十字架につけられたことになります。そして、イエスは新たな命へと復活することによって、人もまたイエスとともに復活の命に招かれていることになるのです。
 これが福音であって、福音とは確かに「人が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が人のために何をしたかについての知らせ」なのです。この福音を信じることが救いをもたらすことになるのでしょうか。

『伝道の姿勢』について

 〈わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである〉(コリント人への第一の手紙)。

 伝道せずにはおれないという自覚をもつパウロが、どのような姿勢で伝道したのかを示す言葉なのです。一言でいえば、相手の立場にまでなるという姿勢です。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、ギリシャ人にはギリシャ人のようになり、日本人には日本人になることです。
 相手の立場になるという伝道の姿勢は、いま伝道されようとしている福音そのものの精神に応じているのです。神が人間と連帯化したということです。連帯化とは、相手の立場になることです。神が相手の人間の立場になったという真理を宣べ伝えようとする時には、それを宣べ伝える者(伝道者)もまたその真理にふさわしい態度をとるのは当然なことです。したがって、相手の立場になることは、伝道のテクニックではありません。真理そのものに属する態度なのです。
 相手の立場になるということは、とかく相手との妥協と思われるかもしれません。伝道者もまた相手の立場になるといいつ、相手に媚び、甘くなり、結局は真理を水増しして、妥協することにならないでしょうか。この疑問に対してパウロは答えています。「自分が相手の立場になるには、相手を得るためである」と。妥協は、自己を相手に明け渡すことですが、パウロは逆に相手を自己へと獲得してくるのです。伝道者が日本人の立場になるのは、キリストの福音を日本的体質と妥協させることを意味しません。日本人を福音まで獲得して、日本的体質を福音によって作りかえることを意味するのです。妥協は自己喪失に終わりますが、パウロによって自己貫徹がなされているのです。

 一応は、相手の立場になったと見せかけて、実は相手を獲得するという態度は、打算に似ているでしょうか。相手の立場になるのは手段であって、目的は自己を貫徹することにあります。それは明らかに「ふたごころ」であり、打算が醜悪になるのはそのためなのです。伝道者の在り方が打算と区別されなくなるなら、すべて崩壊します。パウロの姿勢はどの点で打算と区別されるのでしょうか。打算の場合には、目的は相手を「自己」へと獲得することなのですが、伝道者の場合には、目的は相手を「福音」へと獲得することなのです。パウロが相手を「救うため」といっているのはそのことを示すのです。キリストの福音は、相手の人間を救うことであり、あくまで相手本位なのです。相手本位の救いへと相手を導くことが伝道であるならば、自己本位の打算とは現に区別されるのです。

〈力を尽くして狭き門より入れ〉(ルカ)。