なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(133)復刻版

 今日は、2002年4月14日発行の「黙想と祈りの夕べ通信癸隠械魁徂﨧鑒任魴悩椶靴泙后     

      黙想と祈りの夕べ通信(133[-28]2002.4.14発行)復刻版

 4月14日(日)から、第二、第三主日の説教は、以前から予告していましたようにローマの信徒への手紙を扱うことにします。パウロ書簡を講解説教のような形で取り上げるのは、本当に久しぶりです。ローマの信徒への手紙は、キリスト教史、教会史におきまして、時代の転換期に重要な役割を果たしました。

 宗教改革におけるルターの「信仰義認」論は、ガラテヤの信徒への手紙と共にローマの信徒への手紙の解釈によるものです。また、近代神学のどちらかと言えば、人間中心で人間の可能性として神の国の実現が信じられていたある種の楽観主義に否を言ったバルトも、ローマ書講解をもってでした。そういう意味で、パウロは大変重要な存在でした。

 けれども、私たちの世代の牧師にとりましては、「パウロ主義批判」という問題提起を受けて、どうしてもその最先鋒の田川健三さんの「現実と観念の逆転」という指摘が頭によぎります。パウロは観念としての信仰を現実とし、現実を仮象とする現実と観念の逆転に陥っているというのです。そういう問題を引きずりながら、今回ローマの信徒への手紙を説教で取り扱うことにしました。どうか、説教をする者のために祈っていただければ幸いです。

 上記のような私の発言に続いて、4月から当教会に赴任されたM伝道師から、京都から横浜に来て、この一週間で思ったことをと、以下のような発言がありました。

 引越しの荷物の中から中高の成績表が出て来た。成績だけをみると、自分は学校でトップクラスにいた。その頃の自分は、一番をとることを目的にしていたように思う。神学生時代の教会の奉仕、神学校のゼミなどで牧師になる決意を固めたが、牧師になっても一番を目指そうと思っていたように思う。

 実際に伝道師になってこの教会に来て見て、自分がこれまで神に信頼し、神に委ねて歩いてきただろうかと反省させられた。自分の賜物や自分に信頼していたのではないか。恰好よく言えば、傲慢だったということだが、高ぶった思いがあったのではないか。

 こちらに来て、ちょっと体調を崩し、自分の姿に気づけてよかった。神の見えない力によるのではと思った。今まで下宿していたが、2時間車を走らせれば、実家に帰れたし、隣の戸をたたけば、友だちがいた。今は違う。そういう中で、自分を気づかされたことは感謝である。

 一人の姉妹は、O兄の葬儀から感じたことを話された。自分は小学2年生からこの教会の日曜学校に来ていた。無欠席と言えるくらい、休まずに来た。父が戦死していなかったので、教会に来て「天のお父様」と祈れるのがうれしかったのか、教会の方々が自分に父がいないことを知っていて、目をかけてくれた。

 その頃からOさんは日曜学校の校長先生だった。この教会には、多分他の教会にはないつのぶえ会という日曜学校の同窓会のような会がある。他教会に行っている方、しばらく教会から離れている方が懐かしそうに集まる。今自分は日曜学校のスタッフをしているが、この教会の日曜学校はみんなが繋がっていて、温かいものを感じている。その温かさと自由さはOさんの影響が大きいのではないか。

 これからも子どもから孫の世代へと引き継がれて欲しいと、Oさんの葬儀に出ながら思った。この教会の方々は、日曜学校のスタッフ以外でも、日曜学校の礼拝のお話しを頼むと、快く引き受けてくれる。今日は任職式があり、新しいスタッフと共に、これからも子どもが大切にされる教会、温かな教会を継承していきたい。学校生活にはないもの、神に守られている安心感を大切に、教会の方々に支えられながらやっていきたい。

 また別の姉妹は、Oさんが亡くなって幾日も経たないが、いつも日曜日教会からの帰り道がOさんと一緒だったので、やさしくいつも話しかけてくれたことを思い出す。得難い方がった。何か自分も実行できるものを残してくれたと思う。また、若い伝道師を与えられて、今日は本当に元気が出る日だった。


 
       「わたしたちの罪のため」(『ルターによる日々のみことば』より)

 主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。  イザヤ53:6


 この大祭司は祭司であるとともに、犠牲のそなえものであります。それはご自分のからだといのちを十字架上にささげられたからです。主が、いばらの冠を頭に押しかぶせられ、衣服をはがれ、裸にされ、くだかれ、血まみれて、十字架にかかっておられるのは、どう見ても祭司らしくありません。

しかしそれでも主はご自分をささげられたまことの祭司、また、監督です。その大いなる愛によって、全世界のあがないのためにご自分のからだを、火を通して焼き尽くされたのです。古い祭司職は豪華な飾りを身につけておりました。

しかし、この大祭司はなんの飾りもありません。その祭壇は十字架であり、のろいの木であります。それは恥ずかしい、おそろしい、異常な祭壇です。それゆえにこそ、キリストはこの世の人々にみじめなあざけられた大祭司に見えたのです。主はこのように人をつまずかせる不名誉な祭壇を持っておられ、人々をおののかせるささげものであられました。

 こうして、わたしたちの大祭司イエス・キリストは、ユダヤ人と共に兵士たちによって最も恥ずかしい扱いを受けた祭壇とそなえものをもったかたなのです。それにもかかわらず、主はわたしたちすべてのものの罪をご自分の肩に負われました。そこに、わたしたちは横たわります。あなたも、わたしも、最初の人アダムから世の終わりに至るまでのすべての人がです。

                                   聖金曜日の説教