なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(291)復刻版

 昨日の日曜日は、礼拝後お茶を飲み懇談して、12時半にはみな帰りました。その後後片付けをして、1

時半ごろ船越教会を出て、鶴巻には3時半にはつきました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(291)」復刻版を掲載します。2005年4月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(291[-30]2005・4.14発行)復刻版


 Yさんが昨日召されました。98年の生涯でしたが、最後の10年強は病院とホームでの生活を余儀なく

されました。私が10年前にこの教会に赴任して、初めてお見舞いしたときは、病院にいらしてほとんど声

をかけても反応はありませんでした。その後2年後くらいにホームに入りました。ホームに入ってからし

ばらくして、言葉にはなりませんでしたが、声は出るようになり、またこちらから声をかけますと、それ

に対する反応が返ってくるようになりました。喜怒哀楽も表情から伝わってくるようになりました。ホー

ムの熱心なクリスチャンの職員の方が、賛美歌の歌詞を書いて、いとさんの枕上の壁に貼って、いとさん

に賛美歌を歌ってくれたようです。私もお見舞いするときは、その賛美歌や他の賛美歌を歌いました。い

とさんは聞いていて、声を出すこともありました。しかし、段々と体全体の働きが低下していったのでし

ょう。最初の頃の状態に戻り、お見舞いして声をかけても、うつろな感じで不思議そうに私の顔をみるよ

うになりました。そしてしばらく前から栄養補給を点滴に頼らざるを得ない状態になって、前の病院に入

りました。そして昨日召されました。10年強の病院とホームでのベットでの生活をいとさんは余儀なくさ

れたわけですが、いとさんと同じような境遇の人の中には一人孤独にその生活を続けざるを得ない方もい

らっしゃいます。いとさんは絆の強い4人の娘とその家族の温かな支えと度々の訪問を受けて幸せな方だ

ったと思います。

 上記の私の発言に続いて一人の方から以下の発言がありました。また辺野古のことになるが、21日が最

大の山場と言われている。防衛施設局を越えて海上保安庁防衛庁が手を組んで工事が始まるようだ。3

月末までは辺野古に学生がいたが、4月に向けてそれぞれの所に帰ったばかりだったが、辺野古に集まっ

てくれとの連絡が現地からあった。うねりの会の女性は、海上のヤグラに体を張って阻止できないので、

辺野古に行ってくれる青年があれば、カンパするからと訴えたら、何人か若者が応えてくれた。21日の状

況によっては長くなるかも知れない。若者の中には仕事があるので今晩発って明日21日最終で帰る人もい

る。若者は、時間はあるがお金がない。私たちはお金に多少の余裕がある。若者と私たちのような者が辺

野古で結ばれるのは嬉しい。若者の中には何も知らないでただ面白そうだからと、辺野古にやってくる人

もいる。来たときには幼稚園生だったその若者が一ヶ月、二ヶ月経つと、立派な大人に変貌して、辺野古

から帰っていく。辺野古の座り込みに命をかけているおじい、おばあの生き方に触れ、自分もヤグラにへ

ばりついて命を張ることによって、責任感に目覚めて変わっていくのだ。辺野古では世代を越えた者同志

の交流によって、人が育つ。神さまの御業はすばらしい。明日21日命を落とす人がでないように祈る。辺

野古の阻止闘争がどういう結末を迎えるのかわからないが、一人一人の賜物が生かされて用いられている

ことは素晴らしい。出来れば辺野古の海に作ろうとしている基地が白紙撤回になることを願う。そのため

に祈っていきたい。

 続いて以下のような発言が、伝道師からありました。 Yさんにはお目にかかることなく、お別れにな

ってしまった。自分も5年間闘病生活の末見送った母がいた。母が召されたとき、寂しい思いと苦しい病

から解放されてよかったという思いが複雑に交叉した経験がある。いとさんのご家族の方々もいろいろな

思いでいらっしゃることでしょう。絆の強いご家族と伺った。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。この聖句のように、人の死はそ

れで終わりなのではなく、豊かな実を結ぶことを思い、お別れの時をむかえたいなあー、と感じていまし

た。