黙想と祈りの夕べ通信(334)復刻版を掲載します。2006年2月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(334[-21]2006・2.19発行)復刻版
13日(月)から14日(火)にかけて、西早稲田の教団会議室で常議員会が行われました。私は12日
(日)夜から打ち合わせの会もあり出かけてきました。一常議員でありながら、常議員会の批判をす
るのは無責任でもありますが、批判せざるを得ない常議員会の現実があることが分かっていただけ
ればと思います。今回もいろいろありましたが、その一つは阪神・淡路大震災の第一次、第三次募
金を終了し、残金を中越地震被災教会支援募金に繰り入れるという議題が審議されました。議題そ
のものは原案が可決されたのですが、その論議の中で兵庫教区、特に震災のときに救援活動を中心
的に担われたS牧師への個人攻撃のような発言が多かったことです。第一次募金は災害直後教団三
役が決定して集められ、教団の仮設住宅(辺野古のテント村にあるプレハブもそうです)など、緊
急な救援活動に募金が使われました。ああいう状況でしたので、教団としても十分な準備が出来ず
に、活動が先行し、その費用が支出され訳ですが、きちっとした会計監査ができないと、監査の方
がおっしゃいます。私にはそれはあの状況では当然だと思うのですが、それがけしからんというの
です。教団の責任で集めた募金ですので、その当初から教団の責任ある人が現地に入って会計処理
をすべきだったと思いますが、突然の大きな災害でその準備も無いまま、試行錯誤しならがの対応
でしたので、色々な不備があったのだろうと思うのです。しかし、不正に募金を使ったわけではな
いのですから、不備な点は今後の課題とすればと思うのです。発言の中には救援活動そのものを否
定するかのようなものがあって、大変不愉快でした。私には、反省すべき点は多々あったと思いま
すが、阪神・淡路大震災の現地の教会の救援活動は、「地域の復興なくして教会の復興は無い」と
いうスローガンを掲げて精一杯の活動をし、現在も長田活動センターを通じてその活動を継続し、
いろいろな地域で起こる地震や水害の被災地への救援にも取り組んでいることを思いますと、他の
教区が見習うべきものと思えるのです。立場を越えてよしをよしとし、否を否とする批判的な主体
の形成が求められているのではないでしょうか。
上記の私の発言に続いて、一人の方から以下のような発言がありました。今日の聖書の箇所ルカ
8:4-15は先日Hさんの説教箇所マルコ4:1以下の種の譬えの平行記事である。痛む人へのまなざ
し、その視点の大切さを教えられた。セクシュアル・ハラスメントの講演ではHさんは途中で話せ
なくなり、話を中断した。被害者のことを思ったからであろう。今度教区の性差別特別委員会主催
で同じ問題を兵庫のAさんを講師にして会を持つ。そのための準備として性差別特別委員会では事
前学習として、一審の裁判の判決を読んだ。被害者からの問いかけにどう応えるか、私たち自身が
問われている。セクシュアル・マイノリティー差別のことで、教団常議員会にはW議案が出されて
いる。差別を受けた人からの訴えにどう応えるのかというのではなく、同性愛の問題を聖書や世界
の諸教会から学ぶというW議案の問題性が個人やグループから指摘され、取り下げの要望も出てい
る。九州教区常置委員会からと同じ九州教区平和人権センターからの要望書を読んで、自分がどこ
に立っているかが問われた。沖縄問題、セクシュアル・ハラスメント問題、同性愛問題は、沖縄が
被害者が同性愛者が問題のように受け取られがちだが、私たち自身の問題である。そういう視点を
きちっと持てないでいる歯がゆい自分を感じているが、自分の問題として考える視点をもって、考
えられるようになりたい。そういうところから、教団も変わってもらいたい。
また、別の人からの発言がありました。高齢の方を4人最近見舞うことができた。今自分は65歳
であり、高齢の方を見ていると、健康が許されても後20年位がアクティブに動ける時間ではないか
と思う。今から20年前を振り返って見ても、そう長くは思えない。今後の20年も同じであろう。教
会のメンバーも高齢化が進み、20年後の教会はどうなるのか心配である。自分の籍のある教会もこ
のままでは弱体化していくだろう。残された時間を伝道のために用いたいと思っている。
また別の方から以下の発言がありました。今日の聖書朗読の詩編31編には、神は「砦」「わが
岩」と呼ばれ、詩人は苦悩の叫びを挙げている。心を弱くされ強い力に従い、自分自身を投げ出し
てしまう。その原因は恐怖ではないか。他の人から脅かされる不安、自分自身の中から生まれてく
る恐れ、そういう恐怖に囚われていくと、自分がどんどん小さくされて、恐れに従わされてしま
う。どうしたらそこから抜け出せるか。聖書朗読を聞きながら考えていたが、何も出てこなかっ
た。この詩編には最後で「雄々しくせよ、心を強くせよ」とある。恐れに囚われている人と、助け
合っていくことができればと願う。