なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(386)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(386)復刻版を掲載します。2007年2月のものです。

 今日は、朝からいろいろあって、この時間になってしまいました。


        黙想と祈りの夕べ通信(386[-21]2007・2・18発行)復刻版


 今日は嵐ですので、黙想の時間を少し短くしました。来週の私の説教のテキストはマタイによる福音書

8章1-4節です。ハンセン病の人をイエスが癒す記事です。そこで、説教準備を兼ねて荒井英子さんの『ハ

ンセン病とキリスト教』を読んでいます。結論的に言えば、キリスト教は日本の「救癩」運動において積

極的に関わっていますが、その功罪を現在の時点から振り返れば、罪の方が大きいと言えるでしょう。そ

れはハンセン病者の人権を善意の押し付けによって抑圧したことにあります。ヨーロッパのキリスト教

十字軍や植民地支配の尖兵の役割を果たすことによって、極めて犯罪的であったように、ハンセン病者に

対して日本のキリスト教は隔離政策や優生学に基づく断種政策に与したわけですから、ある面でヨーロッ

パのキリスト教と同じ過ちを犯したことになります。その過ちの原因の一つは、キリスト教的な奉仕とい

う使命を優先しハンセン病者の立場に立った人権感覚に欠けていたということです。この問題は大変重要

ではないかと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。日本の映画を観た。ひとつは、古いオート

バイを改造して、35年かかってあるレースで記録を出すおじいさんの話である。いろいろな人との出会い

とロマンの物語だ。もう一つは、小学生がミスコンに出るチャンスに恵まれ、バラバラだった家族がその

子を応援する。古い自動車で会場に向かうが、途中でギアが壊れてしまったりして、いろいろなハプニン

グが起こり、会場に着くまでにバラバラだった家族が変わっていくという物語である。二つとも共通した

ところがあった。出かけようとすると、突然来客が現れる。一人の自己実現を周りの人が応援する。同性

愛者やゲイをはじめ様々な性的少数者も自然に登場する。どちらの映画も、いろいろな人たちが豊かな出

会いを通して一つのものをめざすのである。振り返って考えると、日本にはいろいろ人の豊かさをもって

困っている人に対して何かできることをしてあげるということが自然にできるというおおらかな面が賭け

ているのではないか。私たちの教会にもそういう豊かさがどれだけあるだろうか。同質の人たちだけでは

なく、弱い人も強い人もいて、一人の自己実現をみんなが応援するというオープンな関わりをめざした

い。

 続いてもう一人の方から発言がありました。今日の午前中、日曜学校のレント消火礼拝の準備のため、

ある方と一緒にイエスゲッセマネの祈りの箇所を聖書研究していた。マタイ(26:36以下)とマルコ(1

4:32以下)では、イエスが弟子の前で「わたしは死ぬばかりに悲しい」と伝え、弟子たちに「ここを離れ

ず、私と共に目を覚ましていなさい」と言い、地面に倒れんばかりで祈る姿が描かれている。しかし弟子

たちはイエスの苦しみを知りつつも眠り込んでしまった。ここを読んで、私も苦しむイエスのために祈れ

るのだろうか、現実に苦しんでいる人々の苦しみを目の当たりにしながらも、本当に深く知って祈ること

ができるのだろうか、と思いめぐらしていた。私自身にはとても無理だが、わたしの前にイエスが歩いて

いてくれる。そのことを信じて、自分の中に起こる変化を待ちたいと思う。

 また新しく来た方からも発言がありました。黙想と祈りの夕べに参加できて感謝である。社会でも政治

の世界でも力の強い者の発言が大きく、弱い者の言葉を無きものとしようとする傾向が強くなっている。

来週の土曜日には神奈川教区総会があるが、教会が弱い者、悲しんでいる人の声を想像力を働かせて聞き

取り、祈ってもらいたいと思う。