なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(410)復刻版

 遅くなりましたが、黙想と祈りの夕べ通信(410)復刻版を掲載します。2007年8月のもので

す。今日は朝から出かけ横浜球場で、ベイスターズと中日の野球試合の観戦に行ってきました。途中少し

雨が降りましたが、最期まで観戦できました。ベイスターズが勝ちました。



       黙想と祈りの夕べ通信(410[-45]2007・8・5発行)復刻版


 昨日の日曜学校の夏期キャンプの開会礼拝で、私は『あなたが世界を変える日』という、1992年6月11

日にブラジルのリオデジャネイロで開かれた国連の地球環境サミットで、カナダ人の12歳の少女が、いな

らぶ世界各国のリーダーたちを前にしたスピーチを紹介しました。そのところを引用さえてもらいます。

 「・・・・・私の国でむだづかいはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それ

でも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。

 カナダの私たちは十分な食べものと水と住まいを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コ

ンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかるでしょう。2日前ここブラ

ジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私

たちにこう言いました。『ぼくは金持ちだったらなあ。もしそうしたら、家のない子すべてに、食べもの

と、着るものと、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに』。家もなにもないひとりの子ども

が、わかちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちが、こんなに欲が深いのは、

いったいどうしてなんでしょう。これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの歳だということ

が、私の頭をはなれません。どこに生まれついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリ

オの貧民街に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東

の戦争で犠牲になるか、インドで物乞いをしていたかもしれないんです。

 もし戦争のために使われるお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球はすば

らしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけれどそのことを知っています。学校で、いや、幼稚園でさ

え、あなたたち大人は私たち子どもに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、争いをし

ないこと。話し合いで解決すること。他人を尊重すること。ちらかしたら自分でかたづけること。ほかの

生き物をむやみに傷つけないこと。わかちあうこと。そして欲ばらないこと。ならばなぜ、あなたたち

は、私たちにするなということをしているんですか。なぜあなたたちが今こうした会議に出席しているの

か、どうか忘れないでください。そしていったいだれのためにやっているのか。それはあなたたちの子ど

も、つまり私たちのためです。みなさんはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを

決めているんです。

 親たちはよく『だいじょうぶ。すべてうまくいくよ』といって子どもたちをなぐさめるものです。ある

いは、『できるだけのことはしているから』とか、『この世の終わりじゃあるまいし』とか。しかし大人

たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。おききしますが、私たち

子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではな

く、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたたち大人がやっていることのせ

いで、私たちは泣いています。あなたたちはいつも私たちを愛しているといいます。しかしいわせてくだ

さい。

 もしそのことばがほんとうなら、どうか、ほんとうだということを行動でしめしてください。

 最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。」

 8月の黙想と祈りの夕べは8日(水)と29日(水)は行いますが、15日(水)と22日(水)はお休みで

す。 



        「イエスと共に挙げられるすべての人々」  8月5日


 イエスの死と復活は、すべての人々に永遠のいのちに到る扉を開く神のみ業でした。イエスは言われま

した。「わたしは地上から上げられる時、すべての人々を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:3

2)。実際、時と場所を超えてすべての人々が、イエスと共に十字架の上に、そして復活の新しいいのち

へと挙げられます。このように、イエスの死は全人類のための死であり、イエスの復活は全人類のための

復活なのです。

 過去、現在、未来の誰であろうとも、奴隷の身から自由へ、囚われの地から約束の地へ、死から永遠の

いのちへと渡っていかれたイエスの過ぎ越しの体験から除外される人は一人もいません。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)