黙想と祈りの夕べ通信(409)復刻版を掲載します。2007年7月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(409[-44]2007・7・29発行)復刻版
日曜学校の夏期キャンプは、昨年に引く続き「平和をつくり出す者―パートII」という主題を掲げて行
われます。私は開会礼拝をまかされており、イザヤ書の2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒め
られる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし、/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を挙げず/、
もはや戦うことを学ばない」から「平和をつくり出す者」に迫ろうと思いました。その準備で『この地球
が100人の村だったら』はじめその類書や『戦争をしなくてすむ世界をつくる30の方法』などを読みまし
た。そ中で戦争をしなくてすむ世界をつくるために、運動として三つの方法があると記されていました。
一つは縦の運動で政府や行政への働きかけです。二つ目は街頭での行動のように、他の人に問題を伝え
て、一緒に行動するようアッピールする。三つ目は、戦争に関係する企業の商品を買わなかったり、自分
の貯蓄が結果的に戦争と結びつくのを避けるために、銀行や郵便貯金にお金を預けるのではなく、オータ
ナティブは社会をめざす運動を支援する自主銀行のようなところにお金を貯蓄する。私は今回特に3番目
の可能性について考えさせられました。今後の自分の課題にしていきたいと思っています。
上記の私の発言に続いて一人の方から発言がありました。今日も国会前の座り込みに行って来た。本の
ひろばにHさんが『イエスと非暴力』という本の書評を書いている。非暴力は命を懸けた行動であり、イ
エスも非暴力を実践された。先週Hさんが辺野古での阻止闘争中に、防衛施設局側のダイバーによってボ
ンベのバルブを閉められるということが起こった。バルブを閉めるということは、Hさんを窒息死させる
ことで、大変危険な行動である。Hさんは、非暴力抵抗を命がけでやっている。国会前の座り込みも来週
で満3周年を迎える。このところ人数は少なくなって、心細い。しかし、時々国会前の座り込みを覚えて
いてくれる人があり、近くに来たと言って、激励に寄ってくれる時がある。先日も北海道新聞の記者が座
り込みのところに来て、そろそろ3年ですねと声をかけてくれて、写真をとっていかれた。今日その記者
が北海道新聞に記事にしてくれたのを持ってきてくれた。また一ツ橋大学の学生の人が、座り込みの終わ
りごろ30分だけですけれどもと言って、来てくれる。座り込みを終えて荷物を社民党の会館に持っていく
のにも一緒に来てくれる。その学生は自分も一度辺野古にも行きたいと言っている。そういう人が来てく
れることは、1週間1日、座り込みに使うのはしんどいと思うが、継続していく力になる。
別の方の発言がありました。大阪の高槻市へ会社の出張で行って来た。京都駅発の電車が3-4分遅れ
て発車した。その遅れを取り戻すために、スピードを上げるのではと思うと、尼崎の事故のことが思い出
されて心配になる。電車の車両も前の方ではなく、6両目に乗った。高槻市に開かれた会議に出て、帰り
の電車も2-3分遅れた。JRの日勤教育、給料カット、ボーナスカットなど厳しいので、運転手にも無理
があるのではないかと思う。出張から無事に帰ってこれてよかった。
続いて別の方から、電車の遅れについての感想があった。朝東横線で教会に来るが、いつもぎりぎり駆
け込み乗車をしている。東横線の車掌さんはドアを閉めず待ってくれることがよくある。時間通りに発車
し、かけて乗車しようとした矢先にドアーを閉められるのとは違い、時間厳守ではないが、ホッとさせら
れる。
もう一人の方からの発言がありました。今日は寿の福祉作業所の昼食会のボランティアに行って来た。
32食つくり配膳して、みんなで一緒にいただく。その雰囲気が何とも穏やかで、部屋の空気がすばらし
い。今日の昼食は冷しゃぶだった。この昼食の時がすばらしいひと時だと今も思っている。そういう交わ
りを持てる幸せを感じている。
「霊的な乾き」 7月29日
霊的な生活において。時にひどく乾きを体験します。祈る気がしなくなり、神の臨在の実感がない、礼
拝にうんざりし、神やイエス、聖霊について信じていたことがすべて子どものおとぎ話と大して違わない
とさえ思えてきます。
そんな時、このような気持ちや考えの大部分は、ただ気持ちや考えにすぎないこと、神の霊は私たちの
気持ちや考えを超えたところにおられることを思い出すことが大事です。感情や思いの中で神の臨在を体
験出来るというのは大きな恵みです。しかしそういう体験が与えられない時、神がおられないのではあり
ません。それはしばしば、さらに忠実であるようにと、神が私たちに呼びかけておられるということのよ
うです。神との新しい関係へと成長していけるように、霊的な修練をしっかりと身につけなければならな
いのは、まさに霊的に乾き切っている時でしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)