なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(425)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(425)復刻版を掲載します。2007年11月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(425[-07]2007・11・18発行)復刻版

 私の教団教師退任勧告が常議員会決議として出てからも、さまざまな方面から抗議や要望のアクションが

出ています。紅葉坂教会役員会からは山北議長宛抗議文が既に出されていますが、関東教区常置委員会から

も私の勧告が手続き上拙速ではないかという要望書がでました。関東教区は今の教団の中では山北議長を支

持する勢力も相当あるところですが、今回の私の件では常置委員会として要望書を出しました。兵庫教区で

も11月18日に私の件で教区集会を開催することになったそうです。札幌のH教会に紅葉坂教会から転会しま

したYさんからは、H教会でも北海教区でも要望や抗議の方向で私の件について考えようとしているというこ

とです。神奈川でもかながわ明日の教団を考える会が中心になって同じ動きをしています。東京、神奈川を

中心とする聖餐を考える会でも、全国的な教団有志の会でも何らかのアクションをする動きがあります。私

の古くからの神学校の同級生の友人からは、これを契機にして少しは教団がよい方向になるのではないかと

いう電話がありました。山北議長が私の件では余りに無謀なことをしたのだから、このことでは相当の批判

が山北議長に向けられるのではないかというのです。そうなってくれるようにと、私も願っています。見守

っていっていただければ幸いです。

 今回の私の問題では、聖餐のことがきっかけとなりましたが、それ以上に山北議長からすれば、自分に反

対する北村が気に食わないということに尽きるように、私には思われます。私は今も東京神学大学の機動隊

導入に反対を表明していますし、東神大教授会はきちっとその誤りを未だに認めていませんので、今後もそ

のことを言い続けていくつもりです。この問題は教会の自立にとって大変重要な問題で、国家権力を相対化

できない教会の信仰は、結局は国家や社会の現体制を下から支えていくイデオロギーに過ぎないからです。

神大は教団立神学校ですが、戦責告白を公表した教団立神学校としては、この機動隊導入の誤りをきちっ

と認めなければなりません。沖縄教区との関係の回復もこれからも言い続けていくつもりです。そういう私

の姿勢が山北議長には気に食わないのです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。テレビのプロフェッショナルという番組で、北

九州で自閉のお子さんを指導している団体のHさんという方の紹介があった。彼女のお話には大変教えられた。

お互いに変わり得る存在として接する。相手も必ず成長するし、そのお子さんに関わる自分も変わる。その

ことをまっすぐに信じること。愛するということはその子を信じることである。そのように語る彼女の顔は

笑顔で輝いている。彼女が自閉の子どもや大人の方一人一人に心からそう思っていることが伝わってくる。

彼女はアメリカで一年自閉の方の視覚に訴える訓練を受けてきた。たとえば、(自分が悪く)自転車にぶつ

かった時、我慢するという表現を自閉の子がもてるようになるために、自転車にぶつかる絵を見せる。ぶつ

かられた人の怒りも絵でみせることによって、自転車にぶつかりそうになった時に、再び怒らない表現する

かを教える。そうすると自閉の子には映像として残るので、次のときに対応ができるようになる。この目で

教える自閉の子への教育的配慮を彼女がしている。実際に彼女のやっていることに、私は神の眼差しを感じ

させられた。宗教や信仰に関係なく、神によって人は用いられているという感じを受ける。一つのことに

通している人は、他の全てのことにも通じているように思える。私たちが他者との関わりにおいて、他者

をとことん信じ、そのかかわりの中で自分も変わり得るか。そういう意味で、まっすぐ信じて歩めるかが

問われているように思わされた。彼女から教えられたことを、みなさんと分かち合いたいと思った。               
           
       
        「イエスのみ名によって行動する」      11月18

 宣教とは、イエスのみ名によって行動することです。私たちの行いがすべてイエスのみ名によるもので

ある時、私たちの行いは永遠のいのちへと実を結んでゆくことでしょう。けれども、イエスのみ名によっ

て行動するとは、イエスの代理であるかのように行動することでも、イエスの広報担当者のように行動す

ることでもありません。それは、イエスとの親しい交わりに留まりながら行動することです。み名は、家

とか、幕屋とか、宿といったものと似ています。ですから、イエスのみ名によって行動するとは、私たち

が愛の内にイエスと結ばれていること、そこに深い安らぎを持つものとして働くことです。そうすれば、

「あなたはどこにいるのですか」という質問に、「わたしはみ名の内にいます」と答えることが出来るよ

うになるでしょう。そして、私たちがすることすべてが、宣教活動となってゆくに違いありません。とい

うのも、私たちの内にあって私たちを通して常にイエスご自身が働かれるからです。宣教活動に召されて

いるすべての人が最終的に問われているのは、「あなたはイエスのみ名の内にいますか」という質問だと

思います。この質問に「はい」と答えられる時、私たちの生活のすべてが宣教活動となることでしょう。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)