なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(424復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(424)復刻版を掲載します。2007年11月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(424[-06]2007・11・11発行)復刻版


 日曜日の礼拝前に月2回開いていた入門講座が、日曜学校で新しい礼拝式を用いるようになり、そちらに

私が毎週出るようにしたためできなくなりましたので、木曜日夜に月2回、一人も来ないのではないかと思

いながらも入門講座を開くようにしました。テキストは富田正樹『信じる気持ち~はじめてのキリスト教

~』です。この本は、山北教団議長によって出版差し止めを受けた本です。私の教団教師退任勧告と同じ

です。思想、表現の自由という民主主義の基本原理を否定するかのようなことを、平気で行うのですから、

この人は何を考えているのか分かりません。入門講座には最初は2人の参加者がありました。その内に3人

になり、11月8日は5人になりました。ずっと出席している方が1人その日は欠席でしたので、その方が出て

いれば、6人です。翌日の9日に寿地区活動委員会がありました。帰りがけに、一人の方が洗礼を受けてい

ても紅葉坂の入門講座に出られるのかと聞かれました。以前紅葉坂で寿の講演会があったときに、外の看

板にあった入門講座の案内を見たからというのです。どうぞいらしてくださいと返事しました。

 8日の日にはじめて参加された方が、キリスト教入門書として富田正樹『信じる気持ち~はじめてのキリ

スト教~』と『ハイデルベルク信仰問答』を銀座の教文館で購入して、読んでみたが、前者は普通の言葉

で書かれているので分かり易いが、後者は教会で牧師さんの解説を聞けばわかるのだろうけれども、ただ

自分が読んだだけでは、キリスト教用語なので分からないと言うのです。『ハイデルベルク信仰問答』は

私も以前入門講座・受洗準備講座で使ったことがありますが、教会ではカテキズムの一つで洗礼教育など

に用いられてきたものです。『ハイデルベルク信仰問答』はドイツのものですが、ルター派が多いドイツ

の中でカルバンの改革派であるハイデルベルク州で作られたものです。日本のカルヴィニズムの伝統を大

切にしている教会は、例えばお隣の教会もそうだと思いますが、この『ハイデルベルク信仰問答』を入門

や受洗準備に使うことが多いのです。富田正樹『信じる気持ち~はじめてのキリスト教~』は、著者がキ

リスト教主義学校の聖書科の教師で学校のクリスチャンではない中高生を対象にしているものですので、

なるたけキリスト教用語を用いないで書いているのです。それだけになかなか面白いのです。入門講座に

出ている私と同じ年配の方が、この富田正樹『信じる気持ち~はじめてのキリスト教~』にはキリスト教

を伝えようとする熱意があると仰っていました。それはクリスチャンではない一般人である自分たちの言

葉で書いているから、伝わるものがあるということなのでしょう。

 前回は「聖書ってどんな本ですか?」と「旧約聖書新約聖書って何ですか?」という部分を扱いまし

た。最近は旧約聖書という言い方は、キリスト教の立場からのもので、ユダヤ教では旧い聖書ではないの

で、この旧約聖書という言い方を「ヘブライ語聖書」というようにしている人もいます。現在の多文化共

生時代からすれば、それがよいかも知れません。新約、旧約の約は「契約」を意味します。出エジプト

出来事にはモーセによる十戒授与というシナイ契約があります。この契約思想は、聖書全体を貫いて、聖

書理解の要になっていると、私は思っています。ひとりの神の下に対等同等な人間が、他者の生命と生活

を脅かすことなく共に生きる共同体が契約共同体です。この契約共同体の理念は民族や国家の枠を越えて

普遍性があるのです。教会もまたこの契約共同体の理念を、イエスを介してイスラエル民族のもつ民族的

な枠組みを越えてすべての人に開かれたものとして引き継いでいるのです。その完成が神の国なのではな

いでしょうか。

 キリスト教入門講座は実際面白くなってきました。洗礼を受けてキリスト者として長く生きてきた方々

も、礼拝はもちろん大切で中心になりますが、ただ聞くだけではなく、いろいろな問いを共有し、相互に

考え学び合える少人数の集まりを作ったらどうでしょうか。そういうところに若い人を招き、彼ら彼女ら

から、何を悩み、どんな問いをもって生きているのかを虚心に聞き、一緒に考えながら学んでいく小さ
集まりがあちらこちらにできれば、そういう試みから若い人への信仰の継承が生まれてくるかも知れませ

ん。もしそういう試みを何人かで始める方があれば、私にも声をかけて見てください。時間がある限り協

力したいと思います。



        「神の民の巨大なネットワーク」  11月11日


 聖徒とは、神の聖なる民のことです。使徒パウロは、キリストに属するすべての人のことを「聖なる者

たち」あるいは「聖徒」と語っています。パウロはよく、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた

、神の聖なる者たち」と呼ばれる人びとに宛てて手紙を書いています(第一コリント1:2エフェソ1:1

参照)。こういう人々の聖性は、イエスの霊の働きによるものです。パウロは再び語っています。「わた

したちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ

姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(第二コリント三:十八)と。

 聖徒である私たちは、暗い天空の無数の星のように光を放つ神の民の巨大なネットワークに連なってい

るのです。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)