なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(423)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(423)復刻版を掲載します。2007年11月のものです。

 18日の日曜日、船越教会の礼拝を終えて、兵庫教区の総会に向かい、来賓者の一人として参加させても

らいました。私の裁判支援会がお願いして、総会の中でアッピールをさせてもらうためです。西中国教区の

総会に続いて、二つ目の教区総会でした。沢山の方々から力づよい励ましを与えられて、昨夜遅くに鶴巻に

帰ってきました。

 
      黙想と祈りの夕べ通信(423[-05]2007・11・4発行)復刻版

 今回の私の教師退任勧告の前後にいろいろな方の励ましをいただきましたが、一つの教会とその牧師から

の働きかけには特別なものを感じています。それは西宮の教会と牧師Sさんからのものです。退任勧告の件が

諮られる常議員会の前には、私と当教会宛てにファックスでメッセージを送ってくれました。北村慈郎様、

紅葉坂教会の皆様「(当教会)でも聖餐式は、その日礼拝に集まった全ての方々と共にしています」とあり、

教会週報のコラムにSさんが書いた未信者だからといって陪餐させないことの不自然さについての文章が添付

されていました。常議員会後には、やはりファックスで北村慈郎様、役員会の皆様宛てに、「『北村慈郎教

師に対する牧師退任勧告を行う件』について文書を遅らせて頂きます」と。その文書は、日本基督教団総会

議長山北宣久様、常議員の皆様宛で、私の教師退任勧告の議決について、28日の礼拝の後の集まりで話し合

われた教会の見解が記されています。その文章の最後にこうあります。「(当)教会では、およそ30年前か

ら主任担任教師が“補教師”で、その補教師による聖礼典(洗礼・聖餐)が執行されることを了承して今日に

至っています。今回『北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件』議案及びその承認などの経緯からすれば、

(当)教会の場合も“退任勧告”ということになります。その場合、そのことのすべてを受けとめ(当)教

会としての理解や見解を述べさせていただく用意のあることを申し述べさせていただきます」と。このよう

な教会の決断を明らかにしての私への励ましは、この教会とSさん以外にはありません。私は、このことから、

他者に対して己をかけて関わることの大切さを教えられました。状況が厳しくなってくれば、人は多くの場

合最初は支援していても離れていくものです。この教会とSさんは自分の退路を断って私の件に関わってくだ

さろうとしているのです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今の話の続きだが、2ヶ月前頃から、今回の10月

22日―23日の常議員会で「北村慈郎教に対する師退任勧告を行う件」が扱われることを、いろいろな人に話

した。いろいろな反応をもらったが、その際40年前に自分が銀行に勤めた時に頭取から「大事は軽く、小事

は重く」という言葉をもらったことを思い出した。何年も前からオープン聖餐について今回のようなことが

起こると予測していたが、その時はマタイ福音書21章23節の「何の権威でこのようなことをしているの

か。だれがその権威を与えたのか」というイエスへの問いを、オープン聖餐を教憲教規違反とする人に問う

つもりでいた。何故教憲教規違反か、常議員会では信仰職制委員会の答申をもってきただけだが、答えられ

てはいない。聖書からも答えていない。北村牧師がオープン聖餐のことで裁かれるのはおかしい。今日の聖

書朗読の2箇所(詩編22:1-22、マタイ5:38-48)は、北村牧師が今問題になっていることと関わるように思

えた。この問題の中で小事を大切にしていかなければならない。いつもしているキリストを宣べ伝えること

を重く扱っていかなければと思った。

 また別の方からの発言がありました。今日国会前に座り込みをしていたら、偶然自立支援法の改正を訴え

る重度の障がい者の方が私たちの前を通り、私たちの座り込みの日誌に、弱い者に強い力をかけてくる国家

の問題を書いた。今日は狭山の部落差別石川さんの中央集会のデモもあった。道の向こう側でデモしていた

が、その中にも紅葉坂教会の伝道師だったYさんもいて、スピーカーを持っていた彼が座り込んでいる私た

ちのことをみつけ、こちらに向かって「教師退任勧告反対」と声をかけてくれた。自立支援法改正を訴えて

重度の障がい者の方を支援している人、憲法9条改定反対を訴える人、その一人一人が祈りのひとであるこ

とを思う。その方々が訴えること行動することイコール祈ることであると思う。私は中風の人を友人がイエ

スのところに運んできた奇蹟物語が好きだ。私が関わっている障がい児の家族支援をしているNPOでは毎週

カンファレンスがあり、看護士ヘルパーの方々がそれぞれ支援に行った障がいの子どもたちや家庭のことを

丁寧に報告する。その報告を聞く度に、これは祈りであると感じている。一時も目を離せない子どもたちを

見ながら、その子どもたちを丁寧に観察し、家族のことも考えながら看護士ヘルパーはいろいろ工夫し、こ

ころを砕き働いている。ここにも祈りがあり、中風の人を運ぶ友人と同じだと思う。国会前に座る人も、今

回の北村の件でもメールで励ましてくれるのも、祈りで繋がっているのではないかと思う。私自身も祈りを

もってこれからも生きていきたいと思わされた。   


        「指導者の貧しさ」            11月4日


 貧困や苦しみ、傷みは何よりもまず、そして例外なく教会の底辺に起こることと考えがちです。私たちの

指導者のことを貧しいと考えることはめったにないように思います。けれども教会の頂点には、大きな貧困、

深い寂しさ、つらい孤独感、切実な抑鬱状態、たくさんの苦しみがあります。

 私たちは、教会の指導者たち・・・牧師、神父、司教、教皇などの苦しみを認め、彼らを弱い者の仲間に迎

え入れる勇気を持つことが大切です。指導者である人々の権力、富、成功に心を惑わされることがないなら、

すぐにそれらの人々の無力さ、貧しさ、失敗に気づき、底辺にいる人々に向けようとするのと同じ思いやり、

共に苦しみ心を携えて、指導者たちに近づこうという気持ちになるのではないでしょうか。神の目には、底

辺と頂点の間に何の隔てもありません。同じように、私たちの目にもあってはなりません。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)