なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(430)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(430)復刻版を掲載します。2007年12月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(430[-10]2007・12・23発行)復刻版


 命の尊厳ということが言われますが、命の尊厳ってどういうことなのでしょうか。教会で一番の高齢者は

106歳のKさんです。Kさんは、今は病院に入院していますが、しばらく前までは介護ホームで生活していまし

た。Kさんは今年の9月末ごろに食事が口からは取れなくなり、熱もあり、ホームの近くの病院に入院しまし

た。Kさんをお世話しているのは甥と姪に当たる二人の方です。お二人は病院に入院した時に、胃ろうをす

ることをすすめられたそうですが、医師には延命処置はしないでくださいとお願いしたそうです。その直後、

姪の方から私に電話があり、Kさんの状態を知らせてくれました。その時はもう長くはないかも知れないと

言われました。電話をいただいてから数日後に、私はKさんを入院している病院に見舞いました。予想して

いたよりも、顔もふっくらとしていて、つやも良く、声をかけても目を覚ましませんでしたが、「もう長く

はないかも知れない」とは思えませんでした。それからしばらくしてから、姪の方から電話をいただきまし

た。Kさんに反応があるので、医師には延命はしないでと言ったが、兄(Kさんの甥)とも相談して胃ろうの

処置をしてもらうことにしたというのです。私は一昨日午後にKさんを病院に見舞ってきました。ベット脇

の台の上には太いビニール管のメガホンのようなものがありました。面会者がそのメガホンの口から、Kさ

んの右耳に出口を当てて話すようになっていました。やってみると、Kさんが目を開け、ニコニコして、私

であることがわかったようです。そんなKさんの姿は久しぶりです。クリスマスの賛美歌を2,3曲歌って

祈って帰ってきました。甥や姪の方が、Kさんの反応を見て、胃ろうの処置を医師にお願いしてくれたお蔭

で、またKさんの笑顔を見ることができました。みんながみんな同じようにというわけにはいきませんが、

老いの方の尊厳とその命が大切にされるということはどういうことなのか、Kさんからいろいろ教えられて

います。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。2007年の最後の「黙想と祈りの夕べ」になる

が、今年はたまたま今で関わってきた二つの会の責任ある立場に立つことになった。今までは責任者がいて、

こうしたらどうか自由に意見を言えたが、責任ある立場として他の人の意見を聞き、その中で選びとった事

については、自分の責任として引き受けていかなければならない。同じ場で立場が変わるとこんなにも違う

ものかと思わされている。いろいろな意見を聞き、道をつけ、決断をして行く。文書を書くことにも戸惑っ

ているし、不安も多く、訓練されていない自分に気が付き、今までの自分の甘さに面と向かわされ自分の力

量を試されている気がしている。この経験を通して物事を大きな視点で正確に、しかも細かなところまでき

ちんと見ることができるようになれたらと思っている。自分がこのチャンスにどう変えられていくのか見据

えて行きたい。今責任を持っているNPOでも性差別問題特別委員会でも、なすべき課題を与えられているので、

来年も祈りもとめて行きたい。

  続いて別の方から発言がありました。「忙しい=心を亡くす」を黙想していた。スピード社会の中で、

子どもも大人もたくさんのやることに追われ、自分のことで精一杯。自分以外の人・事に関心を抱くゆとり

が無くなってきているように思える。社会の抱える問題も大きいが、出来るだけ「忙」の意識を捨てて、目

の前にいる人との会話や出来事を大切にしたい。そこから少しでも優しさや思いやりが生まれたらいいなあ。

「本当に大切なものは少なく、目には見えないんだよ」と星の王子さまと聖書が言ってたっけ。そう思えた

ら私自身、とっても楽になりハッピーになった。こんな暖かい気持ちで来年一年も過ごせたらいいな。メリ

ー・クリスマス!
           

        「イエスの心」          12月23日

 イエスは、傷つきやすい子ども、謙虚な説教者、人々から軽蔑され、拒絶され、十字架につけられたキリス

トです。けれどもイエスはまた、「見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方……すべ

てのものより先におられ、すべてのものはみ子によって支えられ」(コロサイ1:15、17)ている方でも

あります。イエスは十字架の上で嘲られた王であり、アルファでありオメガである方、始にして終わりの方で

もあります。イエスは、世に呪われていると同時に神に祝福された方なのです。

 イエスをいつも見つめていましょう。なぜなら、十字架につけられ、また栄光をお受けになったイエスのみ

心の内に、栄光だけでなく苦しみにも共にあずかるようにと召されている私たち自身を見出すからです。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)