なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(299)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(299)復刻版を掲載します。2005年6月のものです。

 今日は、これまら最高裁に出かけます。私の裁判支援会から皆さまにお願いしました「要請署

名」の集まった分(約700筆)を、事務局長のKさんと、最高裁判所第二小法廷の書記官に届け

て来ます。なお、今後も署名よろしくお願い致します。


      黙想と祈りの夕べ通信(299[-38]2005・6.19発行)復刻版


 今日の聖書朗読のルカ福音書6章36-42節にあります「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は

見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に

向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろう

か。・・・」について感想を言います。このイエスの言葉は、自分には甘く人には厳しいとうい私

たちの問題にも通じると思いますが、自己批判の難しさを思います。その点で確か1972年頃に出版

された荒井献さんの『イエスとその時代』の中で、イエスの祈りについて触れている個所だったと

思いますが、イエスにとって神は私たち人間の自己相対化と絶対的な支えであるというようなこと

を述べていたと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今の聖句の前に「人を裁くな。そ

うすれば、あなたがたも裁かれることがない。・・・」があるが、そこから正すべきことを正さ

ず、曖昧にやり過ごす場合がキリスト者の中に結構多いのではないか。辺野古で出会った光景を思

い出す。阻止行動をしていたときである。ある女性が阻止行動のあり方について厳しくびしっと言

われたことがある。それを聞いていたクリスチャンの女性が、その発言をした彼女がいなくなって

から、傍らにいた牧師に、「先生過ちを犯す者も赦されるのよね。あの人嫌い」と。他者への批判

を裁きととるか、正しい指摘ととるかということだと思う。国会前に座り込んでいると、私が歴史

認識について甘いことを言うと、二人の先輩クリスチャン女性からすぐ「それは違うわよ」と指摘

される。私はその二人の態度が大好きだ。今問題になっているセクシュアル・ハラスメントも、牧

師が追求されようとすると、それを赦さないものが教会の中にはあるのではないか。裁かれている

のがいやだから裁かないという馴れ合いの関係ではなく、違いを違いとして突き詰め、変わり合え

る関係が望ましいのではないか。甘い人間関係として言うべきことも言わないで赦し合う関係を許

容するものとして、場合によっては上記の聖句が機能することもあるのではないかと思った。

 続いてK伝道師からの発言がありました。今の発言を聞きながら、聖書の言葉を黙想していて同

じ思いを持った。批判が自分に対して投げかけられるときに、まず感情のところで受け止めるの

で、腹を立てる、憤慨する。また、自分が他者にこれは明らかにおかしいことだと思ったことを感

情抜きに伝えることの難しさを思う。そんなとき、まあ、いいかー! と思ったことを相手に伝え

ないでその場をやり過ごすことがある。そうすると、必ず同じ問題が後から繰り返される。だから

自分が思ったときに相手にそのことを伝える大切さを思う。と同時に自分の思いを相手に伝えると

きに、どうしても過剰な非難の感情に流され易い。そういう自分の体験からすると、聖書の言葉は

すごいと思う。核心が何かを考えて、愛を持って相手に伝えることが「裁くな」ということだろ

う。自分に対しても批判の矢を向けた上で相手に伝えるということではないか。今日のルカ福音書

の言葉にもやもやしながら黙想していた。

 もう一人の方からも発言がありました。最近の2ヶ月間体調を崩していた。昨年月一回の集まり

があり、行くべきかやめるべきか悩みながら午後出かけた。帷子川沿いを以前あざらしのタマちゃ

んが出たことを思い出しながらのんびりと歩いたら、電柱にぶつかってひっくり返ってしまった。

怪我もなくてよかったが、人目が気になった。2時間の集まりを終えて家に帰ったが、なかなか今

回体調を崩したことの不安と恐れがなくならない。2カ月前の状態にどうしたら戻れるか悩んでい

たが、今日の黙想と祈りの夕べに参加し祈っていたら、心が平静になっていくのが感じられた。