なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(298)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(298)復刻版を掲載します。2005年6月のものです。

 下記に出てきますセクシュアル・ハラスメントで問題になった牧師に、教団教師委員会は「戒告」とい

う戒規を決定しました。それに対して、私には「未受洗者配餐」を理由として「戒規免職処分」を決定し

ました。私の裁判では、二審の教団側から出された被告準備書面の中で、教団側は、「未受洗者配餐」は

教憲・教規違反として「セク・ハラの比ではない」と主張しています。この教団側の主張の内容には、根

本的な違和感を、私は抱いています。

 

        黙想と祈りの夕べ通信(298[-37]2005・6.12発行)復刻版


 6月8日の黙想と祈りは、私と連れ合いの二人でした。K伝道師は沖縄で開かれています第9回日比NC

C協議会に参加していましたので欠席です。そこで分かち合いでは、前日に開催されました神奈川教区常

置委員会での性差別問題特別委員会提出の議案をめぐる論議について話し合いました。常置委員会には連

れ合いも性差別特別委員会委員として陪席していました。特に連れ合いがその常置委員会の論議から感じ

たことが中心になりました。多分この問題はフーコーが問題にした権力に関係していると思われます。フ

ーコーは政治的な権力だけではなく、権力の問題を私たちの言説を含めた日常のあらゆる場面に見出して

いますが、連れ合いは常置委員会という会議の中に権力の顔を見出し、忌避感を持ったのだと思います。

以下連れ合いの文章を載せます。

〈今期教区総会を前にして九州熊本白川教会牧師セクシュアルハラスメント裁判の判決が確定し、教団議

長宛に提出する「第114回神奈川教区総会は、セクハラ訴訟判決の確定を厳粛に受け止め、教団議長に

加害牧師の辞任と被害者Aさんに対する謝罪及び再発防止のための真摯な対応を求める議案を提出する

件」を性差別問題特別委員会が教区常置委員会に議案提出し、それが受理されるためにと委員が皆で陪席

した。議案自体は常置委員のほとんどが賛成ですんなりと通った。ただしこの問題の本質や今後教区内で

のセクハラ問題の取り組みなどについての話し合いなどは何もなかった。そして、ただ提出した議案の文

書形式に対する不備の指摘がなされ、検討がされていくだけだった。公文書の形式に適っていないと委員

の男性の言葉が強く高圧的、対立的に私に響いてくる。「そうですか、それは常識ですか、直します」と

のやり取りが続く。そのやり取りを聞いている間の私の心は、〈はらはら、しまった、間違った、知らな

かった、恥ずかしい、そして悔しいと、心が小さくしぼんでいくのが分かる〉。仲間からは議案がすんな

り通ってよかったとの声。確かに。そのときから家に帰るまで私の気持ちは何かに捕われ納得していな

い。おかしい、どこが? と考えていくうちに、この議案は性差別問題特別委員会だけの問題なのかと疑

問がわいてくる。何故こんなに緊張してエネルギーを出して提出しなければいけないの? との声にぶち

当たる。この問題はどの委員会、教会から提案されてもおかしくはないはずだ。性差別問題特別委員会に

情報として早く入ったことを差し引いても、女性だけの問題でも委員会だけの問題でもない。全ての人が

考える問題として、共有し、対等に考え協議されてよいのでは? しかし現在の教団政治の流れは今の国

会と一緒で一人一人が大事にされていない。強い者が弱い者を無視している。あるいは犠牲を強いてい

る。そうしたことの反省がないまま議案だけを通しても意味があるのか? また、書式について、そうで

すか直しますと言っておさまること自体、男社会が作って来た決り、様式に自分を当てはめているではな

いか。確かに現行様式をとることは仕方がないかもしれないが、その場で感じた私の心の動きは(前出

〈はらはら・・・・〉)強いものに対する劣等感、卑下、そのものであった。何だ、自分自身が男社会に

寄り添い、合わせようとの表れではないかと気づかされる。

 このことに気がついたとき、自分が何気なく存在している時にも、私自身が人に対してそうした強い者

として相手の痛みに気づかずに存在していることも多々あるのではとマタマタ気づかされた。性差別に取

り組むとき、自分を切開し、真理のうちに全ての人が自由に存在できる公平な社会をこれからも追い求め

ていきたいとの思いを強くした。何物からも縛られない自由な心を持ち続けていきたい〉。