なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(297)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(297)復刻版を掲載します。2005年6月のものです。

 10月27日(日)以後、ずっと忙しくしていましたが、17日の日曜日夜の、第58回かながわ明日

の教団を考える会が終わって、少しゆっくりできそうです。昨日は農伝に行きましたが、今農伝の周囲の

森は紅葉で大変美しい時期です。赤く色づいた紅葉をみながら、自然環境の中で生かされて在る紅葉の美

しさに、心揺さぶられました。



         黙想と祈りの夕べ通信(297[-36]2005・6.5発行)復刻版


 5月29日[日]に行われました、ひめゆり予科一年生として沖縄戦を体験されたKさんのお話は、子ど

もたちにも私たち大人にも、抽象的にではなく、いかに戦争が残酷で非人間的な出来事であるかというこ

とを強く印象づけるものでした。何れ教会だよりにも記事としてKさんのお話の要旨が載ると思いますの

で、参加できなかった方はそれをお読みになっていただきたいと思います。ただ直接Kさんからお話を聞

くのと、文章でまとめたものとは迫力が違うでしょうが。

 Kさんがお話をしてくださった5月29日はちょうど横浜大空襲の日であったということを、当日の会の

中で発言だれたSさんによって知らされました。偶然の一致ですが、不思議な感じがしました。私は敗戦

の1945年を横浜で、満3歳で迎えました。1945年5月29日の横浜大空襲の時には私の住んでいた家も全焼し

ました。ちょうど私が3歳半のころの体験です。殆ど記憶らしい記憶はありませんが、それでも断片的に

幼ない子どもの脳裏に焼きついた絵がいくつか残っています。一つは火の中を誰かに抱えられて逃げてい

く絵です。私は防空頭巾を頭にかぶせられ、肩からカバンのようなものをかけられていました。二つ目

は、防空壕から向かいの山の木が所々燃えていて、空から燃えた飛行機のようなものが落ちてくる絵で

す。火が赤々としていますので、夜だったかも知れません。多分この二つの絵は空襲の時のものだったの

でないでしょうか。その他には戦中であったか戦後直後であったか定かではありませんが、電車に窓から

乗せられたことと、どこかの駅の階段の絵です。空襲で家が焼かれた後で、小さかった兄と私を連れて母

が母方の親戚を頼って山形に疎開したときの一光景だと思います。絵としてはそれくらいの記憶しかあり

ません。

 戦後どのくらい経ったかは覚えていませんが、家が焼けた後にバラックが建って、そこで僕たちの家族

は生活しまいた。食べ物がなく、野草を摘んで食べた記憶はあります。また、母と一緒に現在では湘南台

辺りではないかと思いますが、農家であった母の友人の家に食糧の買出しにいった記憶があります。僕と

同じくらいの子どもがいて、家も大きく食べ物にも不自由しないんだなーと、うらやましく思いました。

しかし、まだ小さかったということもあったと思いますが、自分の中にはそれほどつらいという感じは残

っていません。戦後しばらくして、僕のすぐ上の姉が亡くなりました。疫痢だったと聞いていますが、配

給だけで生活していて、栄養失調で体力がなかったということもあったのだと思います。姉たちの話で

は、その時父親の黒かった髪の毛が真っ白になったと言います。親として幼さない子どもの命を守れなか

ったということなのでしょう。父親に関しては、他にずっと後になって分かったことですが、戦争中町内

会長のような仕事をしていて、町内から出征していく人を送り出した責任を感じなのでしょう。戦後はそ

ういう役は一切引き受けなかったようです。子供心に、出征して戦場で死んだ人もいるでしょうから、父

親なりの責任の取り方なのかなあーと思ったことがあります。

 僕のような者にも以上のような戦争体験に繋がるささやかな記憶があるわけですから、Kさんの世代よ

り上の人々には、いろいろな体験があるに違いありません。そのようなさまざまな人々の戦争体験の中で

も、Kさんのような沖縄にいて沖縄戦を体験された方は数少ないでしょうし、その意味で貴重な証言を今

回お聞きできてよかったと思っています。このことがこれからの私たちの平和づくりに役立つことができ

れば、幸いです。