なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(447)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(447)復刻版を掲載します。2008年4月のものです。

 

         黙想と祈りの夕べ通信(447[-29]2008・4・20発行)復刻版


 今日はAさんの葬儀式がありました。沢山の方々が参列して葬送の式をすることができました。葬儀式でも

お話しましたように、Aさんは、12月のクリスマス礼拝の前の週日に私を訪ねて来ました。これから検査入院

をするけれども、手遅れのような気がするので、自分が引き受けている仕事は誰かに代わってもらっている。

私が寿地区活動委員会の責任を持っている関係で、寿の会計の実務の仕事も誰かに代わってもらうようにし

てください、と言われました。私は分かりましたと答えました。Aさんの並々ならぬ覚悟が見える気迫に押さ

れて、そう言わずにできるところまで頑張ってくださいよ、とは言えませんでした。この人は出来るならば

やってくれるでしょうから、このように言って来るのはよっぽどのことではないかと推察したからです。次

に袋を出して、これはもみじの会の会計だが、もみじの会の責任者の方に渡して欲しいとおっしゃいました。

確かに預かりましたと言って、私はその袋を預かり、後日もみじの会の責任者の方にAさんがこうおっしゃっ

ているのでと言って、その袋を渡しました。Aさんは、これで安心して入院できる。自分の入院は誰にも言わ

ないで欲しい。また入院中の見舞いはお断りしたいとおっしゃいました。それでも2月末に一度私は病院にお

見舞いに伺いました。しばらくしたら退院して治療のためにその病院の近くに借りたマンションでの生活にな

るということで、そのためには糖尿のインシュリン注射のように自分で注射をしなければならないので、今

はその注射を自分でためしているところだとおっしゃっていました。祈って帰ろうとすると、Aさんから今度

は自分がホスピスに入ったら必ず来て欲しいと言われました。その時に葬儀の打ち合わせをしたいからとお

っしゃいました。Aさんは既に自分の死を想定していました。自分の死を受容することまでにはなっていなか

ったのではないでしょうか。神さまに文句を言っているところだというようなことをおっしゃっていたからで

す。心の中では何故と格闘していたのかも知れません。ホスピスに行ったら必ず来て欲しいとAさんが言われ

たときも、私としてはわかりましたとしか言えませんでした。その後Aさんは借りたマンションで少し生活し

ましたが、しばらくして熱も出たりして、自分からまた入院したいとおっしゃって、病院に再入院しました。

お子さんたちもホスピスをいろいろ当っていたようですが、入れる部屋があると一番最初に連絡をくれたの

は病院のホスピスに、3月28日にAさんは入りました。数日後私がお見舞いにうかがうと、ベットで、苦し

い時は横になりながら、まず用意していましたノートをみて、葬儀には讃美歌21の504番と434番を歌って欲

しい。前夜式はなしで葬儀式だけして欲しい。まず近い家族だけで火葬し、お骨にしてから葬儀式をして欲

しい。すらすらとそれだけ言われました。私は自分の手帳にメモにとり、分かりましたと答えました。ホス

ピスでは、点滴による水分の補給もお断りして、氷水を口から浸すだけでした。以前の病院でも最初の抗が

ん剤治療は受けましたが、その治療の効果が見えず、次の治療方法に移る時に、Aさんはそれをお断りしまし

た。ご家族のお話では最初の診断で既に膵臓がんで後数ヶ月ということでしたので、そこでAさんは自分の病

気が治らないものと判断し、延命処置を自ら排して、死の迫りを引き受ける決断をしたのだと思われます。

周りの人は、Aさんのその毅然とし態度にAさんの強さを感じられました。何故かという問いを内面では持っ

ておられたに違いありませんが、Aさんの立ち居振る舞いは毅然として死に向かって行かれました。私は牧師

としていろいろな方の死に立ち会ってきましたが、今まではほとんど出会わなかった病気と死に対する一つ

の人間としての態度を、Aさんから見せてもらったように思えてなりません。神の平安を祈ります。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から、以下のような発言がありました。Aさんの急な召天にうろたえた

が、葬儀に参列して、今この黙想と祈りの夕べに加わり、先に召されたFさん共々Aさんも天国では安らぎに

あることを信じ、自分もまたそういう安らぎを経験したことは幸せである。
           

         「矛盾を癒す」          4月20日


 私たちの人生には多くの矛盾があります。家にいるのに家がないように感じ、忙しいのに退屈であり、人

気者なのに一人ぼっちで寂しい、信じる者なのに疑いも沢山持っている。このような矛盾が私たちの気をく

じき、イライラさせ、時にはがっかりもさせます。このような矛盾から、私たちは気が散ってしまってここ

に留まりきれていないように感じます。私たちに開かれた扉はすべて、どれほど多くの扉がまだ閉められた

ままであるかに目を向けさせます。

 けれども、別の見方もあります。これらの全く同じ矛盾が、あらゆる願望の下にあり、神のみが満たすこ

との出来る一つの願望の実現へのより深い望みに気づかせてくれます。このように理解すると上記のような

矛盾は、私たちを神へと向かわせるためのうながしを生み出してくれているのだということが分かるでしょう。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)