黙想と祈りの夕べ通信(503)復刻版を掲載します。2009年5月のものです。
名護市議選挙では、辺野古新基地建設反対派の人の当選が多かったようです。民意に従うどころか、
民意を自分たちの都合のよいように権力と金で操作し、民意に逆らってでも政策を実行しようとしてい
る安倍政権ですから、名護市議選の結果は、それでも辺野古に基地をつくらせないという沖縄の方々の
強い意志を示していると思います。辺野古での抗議活動と共に、東京での辺野古新基地建設反対の座り
込みや防衛省、警察庁、海上保安庁への抗議も、辺野古に基地をつくらせないための重要な運動になっ
ているようです。沖縄の方のように強い意志をもって、それぞれのできるやり方で多くの人々が声を挙
げ行動していくことによって、安倍政権の暴挙を食い止めたいと思います。
黙想と祈りの夕べ通信(503[-32]2009・5・10発行)復刻版
先日東京のW教会で行われた聖餐を考える会で、神学校の私の少し先輩の方が発題しました。2年前に新
しい教会に赴任して、それまでその教会では開かれた聖餐式をしていたそうですが、彼は自分の信仰的な
敬虔からして開かれた聖餐を認めることができないので、役員の方と話をして閉じた聖餐式に変えてもら
ったそうです。その教会に赴任した最初の日曜日がイースターで、聖餐式があり、よく説明して閉じた聖
餐式をしたら、それまで聖餐に与っていた小さな子供が、その時急に聖餐を受けられないというので泣き
出したというのです。彼はその子供にも丁寧に向かい合って、分かってもらったそうです。
彼が今牧師をしている教会では前任の牧師の主導で聖餐を開くようになったようです。彼がその教会に
招かれ、招聘を受け入れてその教会への赴任が決まった段階では、その教会が開かれた聖餐をしていると
いうことは全く知らなかったそうです。着任の3ヶ月前くらいになって自分の赴任する教会では今まで開か
れた聖餐式をしているということを知ったというのです。教会の規模が小さいということも関係している
のかも知れませんが、牧師招聘のときにその教会が大切にしている宣教方針や教会のあり方が相手の教師
に示されていなかったのかも知れません。とにかく現在の牧師が辞めるので、誰か来てもらわないと困る
というので、自分たちの教会はどんな教会なのかということを示さないまま、来てくれる牧師を探したの
かも知れません。
いずれにしても、牧師交代によってその教会では聖餐式のあり方が180度変わってしまったのです。関西
のある教会でも、牧師交代によって開かれた聖餐から閉じられた聖餐に変わるということが起こっていま
す。多分その逆も、閉じられた聖餐が牧師交代によって開かれた聖餐に変わる教会もあるかも知れません。
私は前々から聖餐は教会の業であり、教会が決めるべきことであると考えてきました。本来は全体教会
の問題だとは思いますが、70年以来の教団では全体教会は機能不全にあると思っていますので、少なくと
も各個教会の決断によると考えてきました。ですから私個人でどうこうしようとは元々思っていません。
今回の私の先輩の話を聞いて、教会という集合人格が牧師の一存によって右にでも左にでもなるというこ
とを、改めて強く感じさせられました。こういう教会=牧師という構図の教会がまだまだ多いのでしょう。
私が紅葉坂教会の牧師になって、役員会から聖餐の問題を投げかけられた時に、学びと話し合いを通して、
最終的に教会総会での規則変更にまでいったのは、聖餐は教会が決めることだと思ったからです。教会規則
8条削除をもって開かれた聖餐を紅葉坂教会としての意思決定ということにしました。ですから、私たちの
教会では、牧師交代によって聖餐が開かれた聖餐から閉じられた聖餐に変わるということは、ほとんどあり
得ないでしょう。ただ全くあり得ないかというと、牧師交代時にはないとしても、信徒と牧師の話し会いの
末に、閉じられた聖餐にする論拠に説得力があって、開かれた聖餐を閉じられた聖餐に変えるということが
ないとは言えません。ただ現在の段階では、イエスがめざしたことを福音書から学び、教会をどのように考
えるかという基本的な方向性からしても、開かれた聖餐になるように思います。私の教師退任問題が起きて
も、聖餐に関する紅葉坂教会の姿勢が全くぶれなかったのは、開かれた聖餐が私たちの教会の意思決定であ
り、私たちの教会の中で定着してきているからではないかと、私は思っています。
「杯を手に持つ」 5月10日
私たちの誰もが、自らのいのちの杯を手に持たねばなりません。年を取り、多くの人生の悲しみ~個人的
な失敗の数々、家庭内のいざこざ、職場や社会生活上での失望、国や国際的な場での私たちをとりまく多く
の痛ましい出来事にますます気づくようになると、私たちの内側や周りにあるあらゆるものが、こうした悲
しみを無視し、避け、押し込め、あるいは単純に否定するように仕向けてきます。「人生の日の当たる側を
見よう。そしてそれで我慢しよう」と自分自身に言い、人々からもそう聞きます。しかしいのちの杯を飲も
うとするのであれば、私たちはまず杯をしっかり手に持たなければなりません。そして私たちが何を生きて
いるかをしっかりと受け入れなければなりません。悲しみを避けるのではなく、悲しみを友とすることで、
私たちが捜し求めている本当の喜びは私たちの悲しみのまつただ中にあることが分かる、ということを信じ
ましょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)