なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(506)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(506)復刻版を掲載します。2009年5月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(506[-35]2009・5・31発行)復刻版


 今週も急に昨日、今日と葬儀がありました。召された方は、私が名古屋の教会の牧師をしていたときの

教会員の親戚に当たる方です。召された方の既に天上の人となっているお姉さんの連れ合いで、名古屋か

ら私に連絡をしてきました。大和市の病院で音信普通であった義理の弟が召されたという連絡があったの

で、横浜にいる先生にその義弟の遺体を教会に搬送する手配をし、葬りの式をしてもらえないかというこ

とでした。それが月曜日の夜でした。さっそくいつもお願いしている葬具店に連絡し、翌日朝10時に病院

に搬送の車を用意してもらうようにしました。私も一緒に向かいました。病院に着くと、すでにその前に

名古屋から私に連絡した方は着いていました。病院側の希望で病理解剖をすることになったということで、

病院からの搬送は午後2時過ぎということになりました。その間私は名古屋から来た方と故人が住んでいた

アパートの大家さんのところに行き、故人のことやこれからのアパートの整理について話をしてきました。

午後2時前に病院に戻り、病理解剖を終えた故人の遺体を搬送者に乗せて教会に向かいました。午後3時過

ぎに教会に到着し、葬儀の打ち合わせをしましたら、夕方になり、故人の甥に当たる方も名古屋から見え

ていましたので、夕食を共にして二人とは別れました。今日の午後1時に他の身内の方4名が加わり、葬送

式をして火葬にし、お骨を私がしばらく預かることにしました。故人は30年以上家族との関係を断ち、一

人で生活してきた方で、心臓の発作が起きて、自分で救急車を呼び、入院し翌日には亡くなりました。亡

くなってから福祉課の人や病院で故人の手帳から関係者に連絡し、名古屋の義兄につながり、彼の意向で

私が葬儀をすることになったという次第です。本人は自分の親族に葬儀をしてもらえるとは思っていなか

ったと思います。今回も、一人の人間に関係する親族をはじめ、どんなに孤独死を本人が選んだとしても、

今回のようなことが起こるのは、いかに人間は他者との関係の中にあるかということを示しています。ま

た、召された人のことを考えると、その人への評価を超えて、一人の人生は実に重いということです。今

回もしみじみとそのことを感じました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私も今日の葬儀に出たが、今まで自分が

参列したキリスト教の葬儀では、故人のすばらしい業績に触れることが多かった。今日の葬儀では、マザ

ー・テレサの「わたしたちすべて、神にとってかけがえのない者、道端で死んでゆく男の人も、神にとっ

てかけがえのない者、あの百万長者も、神にとってかけがえのない者、あの罪を犯してしまった人も、神

にとってかけがえのない者、神は、わたしたちを愛しておられるのだから」も引かれ、その人の業績によ

らないということが伝わってきた。現在の教団の中にも各個教会の中にもすべての人を包含する福音に反

する排他的な動きが生まれ易いが、みんなを含めて一人一人を大切にしていきたいと、改めて思わされた。

 また、別の人の発言がありました。先週いろいろ大きなことが家庭的にもあった。朗読の発表会のリハ

ーサルに、若い方に一番先に読んでもらうことにしたのだが、プレッシャーで下痢になりリハーサルを休

んでしまった。本番は見事にやった。その反省会のときに、ある方がリハーサルを休んでしまったことを

手厳しく問題にして注意した。プレッシャーでできなかった人へのその方の対応に、自分はきつすぎるの

ではないかと思った。けれども、注意された方は見事に力を得て元気でいる。私はそのことに心を強く動

かされた。プレッシャーを感じる心の弱い方への自分が今まで得ていた知識を超えて、その人のことを考

えて動いている人の言葉は強い。浅はかな知識を反省させられ、大きな学びをさせてもらった。

 さらにもう一人の方の発言がありました。祈ることは行動に結びつかなくてはと思わされた。自分は体

が弱いので、健康にしてくださいと祈る。けれども、そのように祈るだけではなく、祈ると共に、運動を

するようにしたら、健康になってきた。このような自分の体験から、祈りつつ行動する大切さを知らされた。       


           「迫害されるイエスさ」     5月31日


 神の心に近い愛する子、イエスは迫害されます。貧しく、柔和で、悲しむイエス、義のために飢え渇く

エス、憐れみ深く、心の清い、平和を実現する人イエス、この方はこの世では歓迎されません。神によ

って祝福された方は既存の社会秩序に対する脅威であり、自らをこの世の支配者であると考える人々にと

っては頭痛の種です。誰も告発しないのに告発者とされ、誰も非難しないのに人々は気が咎め、恥ずかし

く思う。誰も裁いていないのにイエスを見た人は裁かれたように感じる。人々の目には、イエスは容認さ

れてはならず、容認することの出来ないものと映ります。なぜならイエスを生かしておくことは、罪を認

めるようなものだからです。

 イエスのようになろうとするなら、受け入れられ、賞讃されることがいつも期待出来るわけではありま

せん。拒絶されることに備えなければなりません。 

  
                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)