黙想と祈りの夕べ通信(513)復刻版を掲載します。2009年7月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(513[-42]2009・7・26発行)復刻版
今日の聖書朗読箇所の詩編26編には、「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり/あなたのまことに従っ
て歩き続けています。」(3節)と言われ、「わたしは完全な道を歩いてきました」(1節、11節)と詩人は
言い表しています。完全な道とは、「あなたのまことにしたがって歩き続け」ていくことでしょう。それに
対して、「偽る者」「欺く者」「悪事を謀る者」「主に逆らう者」の存在を詩人は認めており、「偽る者と
共に座らず/欺く者の仲間に入らず/悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ることをしません」
(4節、5節)と、自分はそのような人々とは違った道を歩むことを宣言しています。私はこの詩編の箇所を
読みながら、現代の社会にキリスト者として私たちが生きるときにも、自分は信じる道を行くという主体性
が大切ではないかと思わされました。前回金融に関わる投資家について話しましたが、先日NHKのテレビで
「金融工学」について放映されていましたので、それを観ました。観て驚いたのですが、金融工学などとい
うことをはじめて知りました。アメリカで有能な科学者や数学家がある時期から金融業界に集まり、あたか
もリスクがないかのようなリスクが隠された金融商品をつくっていたというのです。その金融商品を投資家
が買い莫大な利潤を得ていたわけです。しかし、金融商品の中に隠されていたリスクが一挙に噴出し、昨年
秋以来金融不安が全世界に広がっていったというわけです。私は金融工学のテレビを観ていて、科学技術っ
て何だろうかと改めて思わされました。虚構をあたかも現実であるかのごとくに見せるために人間の最高の
知が用いられるわけです。人間って何なのでしょうか。大地からどんどん上昇していく虚構社会という現代
社会の中で、出来るだけ地に足の着いた生活を、「あなたのまことに従って歩み続けます」と告白した詩人
のように、周囲から変わり者と思われても、素朴にひたすら歩み続けていきたいと願わずにはおれません。
上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先日日曜学校の鎌倉のホーム訪問に参加した。
子どもがピアノを弾いたが、日曜学校のスタッフに勧められて突然自分の曲を弾く機会を与えられた。その
曲は1年前に作ったもので自分としては一番好きな作品である。何よりもみんなが喜んでくれたことがうれ
しかった。今までの経験では譜面を見せて棄てられたこともある。でも曲を作りつづけてきたが、今回のよ
うに弾く機会を与えられ、喜んでもらえたのは本当に嬉しい。別の話だが、今北村先生の話を聞いて、聖書
のバベルの塔の話を思い出した。人間の傲慢さである。サブプライムローンの問題には、人間が全能な者で
あるとの思い上がりがあったと思う。資本主義社会の中で何をやってもよいという驕りがある。日本(東洋)
より西洋の方がそのような人間の驕りを現すエピソードがあり、今後も続くかもしれない。人間は限りある
者で全能な存在ではない。そのことに気づいたとき、世の中がよくなっていくのではないか。
続いて、もう一人の方の発言がありました。10日に桜木町の旧東横線駅の催会場でゴスペルの色々なグル
ープが歌っていたとき、その前を通りかかった。「イエスが救ってくれた」というフレーズのゴスペルだっ
たが、聞くともなく聞いていて、改めて信仰の歌は人に聞かせるものではなく、自分たちの信仰告白として
歌うものではないかと思わされた。私たちもクリスマスイブに、キャンドルサーヴィスの後キャロリングに
みなと未来に行って歌うが、おそらく歌っている私たちのそばを通って行かれる方々が私たちの歌う賛美歌
に共感する人はほとんどいないに違いない。何のために、誰のためにということを考えると、苦しむ人たち
においてイエスと出会うという私たちの信仰者としての在り方が、人に共感を与えるのではないかと思う。
今日の黙想と祈りの夕べ通信癸毅隠欧離淵Ε┘鵑痢峩譴靴犲匆颪妊リストと出会う」に共感した。同じ日
銀座に絵の個展を見に行ったときに、一人の青年が聖書を片手に持ち、大きな声で語っていたが、何だか照
れくさく感じてしまった。自分が不遜なのかもしれないが、救いとか愛とか声高に言わなくても自分の十字
架を担って黙々と生きている人に出会うとそこにキリストの生き方を見る気がする。ゴスペルや賛美歌を人
前で歌うことがどうこうということではなく、自分も歌うときは大きな声で歌うが、どういう所で誰に対し
てということが大事なのではないか思わされる。
「霊的生活の力学」 7月26日
感情の生活と霊の生活とはそれぞれ異なった力学をもっています。ふだん体験する感情の起伏は、多くは
過去や現在の生活環境によって左右されています。私たちが、嬉しかったり、悲しかったり、興奮したり、
落ち込んだり、愛情を感じたり、人のことを気にかけていたり、憎んだり、復讐したいと思ったりしている
のは、昔起こったこと、あるいは、今起こっていることとの関連でそう感じているのです。
霊的な生活の起伏は、私たちの従順、つまり聴くこと、すなわち私たちの内におられる神の霊の働きに、
注意して耳を傾けることによって起こってきます。このように耳を澄まして聴くということがないと、私た
ちの霊的生活は、いつか吹きさらしの感情の波にもまれたままになってしまいます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)