なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(512)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(512)復刻版を掲載します。2009年9月のものです。

 昨日は素晴らしい秋晴れの日曜日でした。船越教会の裏の崖には数輪の彼岸花が咲いています。この季

彼岸花の赤が心にしみます。


         黙想と祈りの夕べ通信(512[-41]2009・7・19発行)復刻版

 昨年のリーマン・プラザーズ倒産に端を発した金融危機から、日本社会でも派遣切りによる解雇が拡が

り、格差と貧困が問題になっています。このことがなぜ起こったのかということですが、そこには金融社

会の問題があるように思えてなりません。私は前々からお金ころがしにしか思えない投資家の存在が、実

体経済から虚構の金融経済を作り出していて、それに振り回されているのが資本制社会の実体のように思

っていました。たとえばサブプライム・ローンは、実際にはお金のない貧しい人々もローンで住宅を購入

できるということですが、このからくりは住宅をローンで買えば、その買った住宅と土地の資産価値が買

った時よりもどんどん上がり、ローン返済も生活も楽になるということだったようです。そんなことが起

こると思うことが錯誤なのですが、錯誤によって成り立っている社会ではそれが当たり前として通るので

しょう。ローンを組んで買った土地と家の資産価値が上らず、ローンの支払いが滞る人が大勢出て、銀行

も証券会社も窮地に陥ったというわけです。それをあやつっているのは、儲けるだけ儲けて国や市民社会

がどうなろうとかまわないという極めて利己的な投資家たちです。アメリカはそういう人々によって食い

物にされたということでしょうか。金融がだめなら原油穀物ということで投資家の資金がそちらに流れ

て、原油価格の高騰、穀物価格の高騰が起きて、結果的に穀物生産国の貧しい人々が食べるものにも困る

ということが起きたというわけです。アメリカは今銀行もGMのような会社も莫大な税金が投入されて殆ど

国営企業のような体裁になっています。資本主義とは思えない様相です。金融と言うか、貨幣経済の落し

穴にはまったということでしょうか。投資家の存在には大いなる疑問符をつけざると得ません。

 以上の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日も国会前の座り込みに行って来た。日本

基督教会の方で慰安婦のことで国会前に来た方が私たちの座り込みに、座らせて欲しいと言って、座って

いった。彼女は世界が戦いを前提とする基地を造るのでなく、すべて者の平和を求める姿勢なら軍事の予

算を取るのでなく今の金融の話と重なるが、みんなが助け合って生活する方に行けないのでしょうかね?

と話し掛けてきた。アメリカが東アジアににらみを利かすための基地を作ったり、北朝鮮がミサイルを打

ち上げたり、日本の防衛省がどれだけのお金を使っているか考えさせられる。若者の生活が厳しくなって

いる。世界のみんなが友だちなら、防衛、軍備の費用がいらないのにと思う。国会前の辺野古新基地建設

反対の座り込みも5年になるが、そもそも世界のみんなが友だちならば、座り込み自体必要がないわけだ。

なぜ人の幸せを祈る ことが出来ないで、国と国が多分互いに争うだろうという予測の下に軍備にお金が使

われるのか。アメリカが敵対国を想定して世界戦略を勝手に描き、日本に基地をつくり、司令部を置くわ

けだが、世界が平和でその必要がなければ、どんなにみんなが楽に生きて行けることだろうか。戦い合っ

ていく世界ではなく、手をつなぎ助け合う世界になって欲しい。絵空事にしたくない。そのために出来る

ことをしたい。
もう一人の方の発言がありました。お金のために命を落す。お金のために戦争する。そういう現実がある。

一方お金無しには生活できないけども、お金が正しく使われる社会であったらいいなーと思う。子どもの

虐待が増えている。お金がないとそうなり易いのかもしれない。命が一番という共通認識をもてれば、そ

こから分かち合えるのではと思った。教会の中でも各個の教会を越えて連帯し合っていけたらいいなーと

思った。以前出席していたT教会に行ったとき、「教会と社会の関わり」という主題で修養会が行われるこ

とを知った。教会と社会とは別ということがどこでもあるように思うが、その根底には聖書をどう読むか

という問題があるように思われる。すべて周りを敵と思うか、隣人と思うかによって違う。現実はなかな

か難しいが、イエスの歩まれた道に少しでも従って、苦しんでいる人、辛い思いをしている人と共に解放

の道をめざしていきたいと思う。



         「苦しむ社会でキリストに出会う」    7月19日
 
 個人ばかりでなく、コミュニティーもまた苦しみます。世界中到るところに、迫害され、虐待され、辱

められ、恐ろしい犯罪の犠牲にされている人々が大勢います。苦しんでいる家族。苦しんでいる友だち、

仲間。苦しんでいる信仰者のコミュニティー。苦しんでいる少数民族。苦しんでいる国。これらの人々の

苦しんでいる体の内に、私たちは苦しむキリストを見つけることが出来なくてはなりません。これらの苦

しんでいる体もまた、選ばれ、祝福され、割かれ、世に与えられています。

 これらの人々の叫びに応えようと互いに呼びかけ、正義と平和のために一つとなって働く時、私たちは

キリストを大切にしようと献身しているのです。キリストは、私たちの世界の救いのために苦しみ、死な

れました。


                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)