なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(538)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(538)復刻版を掲載します。2010年1月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(538[Ⅺ-16]2010・1・17発行)復刻版


 このところ護教ということについて考えさせられています。護教とは教えを護るということですが、

キリスト教の場合教会を維持し護るということでもあります。たとえば教会員の高齢化が問題になると

き、高齢化していく教会員に教会がどう寄り添って、その方々の痛みや苦しみをどう支え合っていかれ

るのかということが問題になるのではなく、若い人が少なく教会が衰退していくのではないかというこ

との方が問題になります。そこでは組織として教会の持続が問題になっています。そしてそういう問題

意識から教会の存続のために「伝道」が奨励されます。しかしそのようにして行われる「伝道」には、

福音書に描かれているイエスの生涯とその働きがもっている、人びとが自然と引き寄せられていった命

があるのでしょうか。私には疑問に思われます。イエスの生命力といったらよいのでしょうか、イエス

神の国の宣教とその到来の徴である病や悪霊に憑かれた人たちがその苦しみから解放されていった福

音の喜びでしょうか。そういうイエスの命の継承こそが私たちにとっての大切な課題であり、護教では

ないように思うのです。もしそういうイエスの命の継承がないとすれば、無理して教会を護る必要はな

いように思います。イエスの命は別の形で必ず人々の中で継承されるに違いないからです。新しい年も

そのようなイエスの命を求めて歩んでいきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。昨年の秋ごろから体調がよくなく、12月中

ごろからは胃の調子が悪く、げっぷがでたり、もたれたりして、気持ちが悪い状態が続いている。胃腸

風邪ではないかと医者に言われている。消化のよいパンやおかゆを食べても、もたれるので、無理に食

べない方がよいと言われている。自分は7~8年漢方の医者にかかっている。漢方では勢力が強く体力があ

り、怪我や病気になっても回復力がある人を「実証」という。逆に体が弱く怪我や病気にかかると回復

力のない人を「虚証」という。風邪を引いても酒を飲んで寝れば治るという人は実証。それをやればさ

らに悪くなる人は虚証。今までは実証の人が主流できている。しかし、それによってさらに治りにくく

していく。虚証の人の場合は、細かく治していく。穏やかに治していく。一昨年の頃から実証的発想の

経済活動が虚証に落としてしまったのではないか。今民主党が景気回復、成長戦略を唱え、発想自体が

実証的になっている。そうなると、どんどん現実を虚証に追い込んで、衰弱する方向にいっているので

はないか。

 別の方の発言がありました。新年に当たり、いろいろなことを思い巡らすが、一つ伝えたいことがあ

る。自分が関わっている障がい児の家族支援NPOの利用者さんから事務所に沢山の年賀状が毎年届く。そ

の年賀状のほとんどが、障がい児を囲んだ家族写真で、家庭のあたたかさが伝わってくるものが多い。

賀状用のものや七五三や節目節目のときに晴れ着をきているもの、温かな家族の雰囲気が伝わってくる。

在宅で重度障がいの子は、栄養も酸素も自力で取れないで、緊張して過ごしている。もしそういう子ど

もが在宅で生活できずに、病院で生活していたらなかなかこうした温かな家族の写真はないだろう。在

宅だからそういう写真が撮れるのではないか。以前は重度の障がい児は隠すことが多かった。今はその

子どもが中心の写真が多い。家族から支えられ受けるだけの障がい児も、他の家族の一人一人に与える

ものがあるのではないか。見方によっては、大変ねーと思うかも知れないが、その子から生きる原点を

教えられる。最も弱い者を中心に共に生きていくところに温かさが生まれるのではないか。弱い者がそ

のままで生きていけることが温かいものを与えているのではないか。

 もう一人の方の発言がありました。路上生活者の支援をしている人のことや、風刺のきいた歌をうた

っている路上生活者のこと、また沖縄では路上生活者に行政が一日5,000円で遺骨収拾の仕事を斡旋して

ということなどを話された。 

    

          「自分自身であれ」       1月17日


 今自分のいるところとは別のところにいたい、あるいは今日の自分ではなく別の誰かでありたい、と

思うことがよくあります。私たちは、常に他の人びとと自分を比較してしまいます。そして「どうして

あの人たちのようにお金持ちじゃないのだろう、知的じゃないのだろう、質素じゃないのだろう、親切

ではないのだろう、聖くないのだろう」と考えます。このような比較をすると、私たちは後ろめたいも

のを感じたり、恥ずかしく思ったり、あるいは嫉妬することもあります。神が私たちを召し出そうとし

ておられるところは、今自分のいるところ、そして自分が自分であるところに隠されている、というこ

とを理解することはとても大切です。私たちは一人ひとりかけがえのない人間です。一人ひとりが、誰

にも代わってもらうことの出来ない人生を生きるようにと呼びかけられています。一人ひとりが、「今、

ここ」という具体的な状況において、自らの人生を実現するよう召されているのです。

 他の人々より優れているか劣っているかを推測しようとしていたら、私たちが何に呼ばれているのか

を分かることは出来ません。私たちは、するべきことをするに十分な恵を受けています。あなた自身で

ありますように。

 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)