なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(8)

   「抗弁」エレミヤ書2:29-37、       2015年5月17日(日)礼拝説教


・先ほど読んでいただいたエレミヤ書2章29節に、「なぜ、わたしと争い/わたしに背き続けるのか、と主は

言われる」とありました。ここでは、主なる神ヤハウエと「争い」、主なる神ヤハウエに「背き続ける」イ

スラエルの民の側の背信が問題になっています。ところが、2章9節では、この2章29節とは違って、同じこと

が神の側から語られていました。「それゆえ、わたしはお前たちを/あらためて告発し/またお前たちの子

孫と争うと/主は言われる」と。ここでは、イスラエルの民の背信を告発し、イスラエルの民と争うのは主

なる神ヤハウエご自身だと言われているのであります。

・主なる神ヤハウエに背を向けて、異教の神バール神を礼拝することによって、神と争っているイスラエル

の民。そのイスラエルの民に悔い改めを求め、自分の下に立ち帰って来るようにと、イスラエルの民の背信

を告発し、イスラエルの民と争う神。預言者エレミヤは、この神と神との契約に生きるべく定められたイス

ラエルの民との格闘を問題にしているのです。このエレミヤの預言では、あたかもイスラエルの民は擬人化

されて、一人の人間のように描かれていて、神とイスラエルの民との間にある人格的な格闘に目を向けてい

るのであります。

・聖書の創造論からすれば、私たちも信仰のある無しに拘わらず、神の被造物です。また、その神は、イエ

ス・キリストを通して私たちすべてを、信仰のある無しに拘わらず極みまで愛し給う方です。一人一人の尊

厳を大切にしてくださり、人が支配・被支配、抑圧・被抑圧の関係から解放されて、神にあって対等同等な

一人一人の尊厳において、互に分かち合い、支え合い、助け合う者として私たちを召してくださっているの

であります。とするならば、今の日本の情況を、その神及び主イエスとの人格的な格闘の中で見た時、神は

どのようにこの現実を見ておられるのでしょうか。エレミヤが彼の生きた時代において、神とイスラエル

民との関係を、両者が相争うものとして、イスラエルの民の背信とバール礼拝を告発し、イスラエルの民と

争う神と、片や神に背き続けて、神と争っているイスラエルの民との人格的格闘として捉えたように、現代

の日本の情況を捉えるとするならば、どのように捉えることが出来るでしょうか。

・エレミヤはイスラエルの民を擬人的にひとりの人として見ていますが、今の日本の情況はエレミヤが捉え

たようには見ることができません。むしろ今の日本の情況はイエスの時代のユダヤに近いと思われます。イ

エスの時代のユダヤでは、大祭司を中心とするユダヤの支配層とその上にあるローマの権力によってユダヤ

の民衆は二重の支配を受けていました。ちょうど現在の沖縄の人々に象徴されているように。沖縄の人々は

アメリカと日本政府によって米軍基地負担を強いられているのです。そしてそのような状況を好ましいと

考えない人々が相当多く存在します。沖縄の場合は、ほぼオール沖縄と言われるほど、圧倒的に今の状況に

否を唱えているのです。沖縄程ではありませんが、ヤマトでも一枚岩ではありません。安倍政権と一体化し

てアメノミクスを支持する人々も相当いますが、安倍政権の反憲法的な姿勢を批判する人々も多くいます。

・エレミヤの場合のようにイスラエルの民を一人の人間のように擬人化して、一律に神に背く民と、現在の

日本の人々を集合的な一人格として否定的に断定することはできません。人の命と生活が脅かされる状況に

否を言い、平和と人権の確立を求めて立ち上がっている人々がいます。そのような人々は、自覚的にイエス

を信じイエスに従っている人ではないとしても、彼ら彼女らにとってはそのような見方は好まないかもしれ

ませんが、私たちキリスト者から見れば、匿名のキリスト者と言ってよいのではないでしょうか。むしろキ

リスト者たちの中に、教条主義的な信仰に閉じ籠ったり、信仰を個人主義的な慰めとして矮小化してとらえ、

結果的に政治に無関心で、現在の反憲法的な安倍政権を擁護している人も多いのではないでしょうか。

・そのような状況にある今を、神はどのように見ておられるのでしょうか。イエスはこのように語りました。

「貧しい人々は、幸いである。/神の国はあなたがたのものである。/今飢えている人々は、幸いである。

/あなたがたは満たされる。/今泣いている人々は幸いである。/あなたがたは笑うようになる。/人々に

憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸い

である。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じこ

とをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰められている。/

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、なたがたは飢えるようになる。/今笑っている人々は、

不幸である。/あなたがたは悲しみ泣くようになる。/すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸で

ある。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(ルカ6:20-26)。

・イエスにとっては、幸いであると言われる、貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々、イエス

に従うが故に人に憎まれ、ののしられている人々と、不幸であると言われる、富んでいる人々、今満腹して

いる人々、今笑っている人々、すべての人にほめられる人々とが別けられて見られているのです。幸いであ

ると言われている人々と神が共にい給うということであり、不幸であると言われている人々には神は敵対し

ているということではないでしょうか。

・神と共に、虐げられた人々と共に生きていくのか、神に逆らって、虐げられている人々を切り捨てて生き

ていくのか。イエスはその二者択一を問題にしたのではないかと思われます。

・けれども、今日のエレミヤの預言は、イスラエルの民の中に、幸いな者と不幸な者という二種類の人々を

見てはいません。繰り返しますが、イスラエルの民を擬人化してひとりの人間のように見ているのです。そ

してそのイスラエルの民は、神に背いている民なのです。彼ら彼女らは神が遣わした預言者をさえ受け入れ

ず、神の懲らしめを受け入れませんでした(30節)。「獅子が滅びつくすように/お前たちは預言者を剣の

餌食にした」と言われています(30節)。また、「お前の着物の裾には/罪のない貧しい者を殺した血が染

みついている」(34節)とも言われています。このエレミヤの預言は初期の預言で、紀元前627年のエレミ

ヤの召命から紀元前622年のヨシヤ王の宗教改革までの5年間にエレミヤが預言したものだと言われています。

しかもこの初期のエレミヤの預言は、既に100年近く前にアッシリア帝国によって滅ぼされた北イスラエル

の人々に向けて語られたものだと言われています。彼ら彼女らは覇権主義的なアッシリアに、アッシリア

弱体化すれば、今度はエジプトに身を寄せようとしていたのです。エレミヤは言っています。「なんと軽率

にお前は道を変えるのか。/アッシリアによって辱められたように/エジプトにも辱められるであろう」

(36節)と。そして「主はお前が頼りにしているものを退けられる。/彼らに頼ろうとしても成功するはず

がない」と断言します。

・このことは、エレミヤは北イスラエルの民と南ユダの民が主なる神ヤハウエの下に再び一つとなることを

願って、預言者としての活動をしていたことを意味します。エレミヤは、イスラエルの民が、アッシリア

エジプトに頼ろうとしても、成功するはずがない、と言います。「主はお前が頼りとしているものを退けら

れる」からだと言うのです。主なる神によって退けられてしまうような、アッシリアやエジプトに代表する

権力や富(資本)を頼ってはならないと。

・では何を頼ればいいのでしょうか。エレミヤにとっては、それは神の定めである人倫に関する律法ではな

かったでしょうか。人間がより頼み得る唯一の方は、命の創造者であり、命の保護者であり、命を真に生か

し得る救済者であり、神の国の完成者である方のみです。その一人の方の前に、私たちが互いに助け手とし

て、仕え合っていくときに、命はそれにふさわしく燃焼していくのです。「自分のように隣人を愛せ」これ

に尽きます。

明治維新によって近代化を歩み始めた日本の国は、既に資本主義的覇権主義の列強が世界に存在していま

した。アフリカや南米やアジアの多くの人々は、それらの列強による植民地支配に組み込まれました。明治

政府は、後から列強の仲間入りめざして、天皇制国家という枠組みを作り出し、富国強兵を旗印にして近代

化を進めました。明治政府がめざしたのは、権力と資本が備わった列強にひけをとらない強い日本国家でし

た。その明治政府がめざしたものの結末が、アジア諸国の侵略によるアジアの人々に対する絶大な犯罪であ

り、ヒロシマナガサキの悲劇であり、戦災による多くの人々の困窮でありました。私たちはこの戦争犯罪

と戦争による犠牲と代価を払って勝ち取ったのが、日本国憲法ではなかったのではないでしょうか。戦争放

棄、主権在民、生活権の保障など、私たち自身が主体となって、憲法によって、二度と再び戦争をする国に

ならないように、民主的な国造りをするという決意をもって、戦後の時代を歩み始めたのではなかったので

しょうか。

・ところが、朝鮮戦争を契機にアメリカの世界戦略に日本政府は巻き込まれて、経済成長という幻想に私た

ちも翻弄されて、私たち自身もどんな人でも、その人の命と生活が脅かされない人権を尊重し平和な国造り

を怠ったために、現在の安倍政権を生み出してしまったのではないでしょうか。いよいよ戦争のできる国に

なる安保法制の国会審議がはじまろうとしていること時に当たりまして、エレミヤの預言を噛みしめたいと

思います。「なんと軽率にお前は道を変えるのか。/アッシリアによって辱められたように/エジプトによ

って辱められるであろう」。武力に頼る者は武力によって滅びます。人間同士の公平な関係としての正義と

平和と喜びによって、人と人とが結びつくならば、滅びることはありません。「神の国は、・・・・聖霊

よって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信

頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。