なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(24)

   「目には目を?」 マタイ5:38-42、2019年2月24日(日)船越教会礼拝説教
          

・皆さんの中でも友達などから、クリスチャンは「右の頬をぶたれたら、左の頬を出しなさい」と言われ

ているようだが、本当にお前は右の頬をぶたれたら、無抵抗の上に左の頬をだすのか? ちょっとやって

みるから、右の頬をだしてみろ! と言われたことがないでしょうか?


・私は小学生時代の悪友が3人いて、一人は10年ほど前に亡くなりました、後の二人は今でも連絡があれ

ば、一年に一度か二度会うことがあります。その中の一人が昔よくそう言って、私をからかいました。


・実際この「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」という教えには、困ります。これを単純にクリ

スチャンは無抵抗でなければならない、すべてのことに寛容なのがクリスチャンだろうと理解している人

もいるからです。


・しかし、実際に「右の頬を打たれて」自分から「左の頬を突き出して」相手にぶってみろと振舞うとす

れば、これは立派な抵抗の姿勢です。暴力で返さず、無抵抗でぶたれても、ぶたれても、ひるまず起き上

がって、ぶつならぶてと体を差し出すのは、決してぶたれて引き下がることではないでしょう。


・確か田川健三さんは、この「右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい」という教えを、そのような抵

抗の教えとして理解していたと思います。


・問題は、「目には目を、歯には歯を」という、「同害報復」によって社会の秩序が成り立っているとこ

ろにあります。そういう意味で、これは社会的な正義の教えです。現在の日本のような市民社会でも、直

接的な報復ではなく、裁判によって同害報復の原則が貫かれているのではないでしょうか。


・最近いじめで亡くなった自分の息子の死を泣き寝入りせずに、同じようなことが起こらない為にと、自

分の息子をいじめて死に追いやった3人の子供とその親を訴えていた裁判の判決がでました。問題はいじ

めをした子供が、そのいじめによっていじめられた子供の自死を予測できたかということです。一人の子

供とその親は無罪になりましたが、2人の子供と親は有罪とされ、3千数百万円の賠償を命じられました。

今までのいじめの裁判では、裁判官がそこまで踏み込んで判決を出すことはなかったのですが、今回の判

決はそういう意味で画期的な判決だと言われています。


・いじめで自死した子供の親にとっては、賠償を認められたからと言って、自分の息子をいじめで失った

という痛みが消えるわけではありません。いじめられた子供が被害を一方的に受けるのではなく、いじめ

た子供にも罰が与えられるという同害報復を意味するこの判決によって、いじめが抑制される効果は無視

できないのではないでしょうか。


・寿の越冬活動に参加された方は、ご存知だと思いますが、寿の越冬スローガンの中に、「黙って野垂れ

死にするな! 生きて奴らにやり返せ!」というスローガンがあります。クリスチャンのボランティアの

中には、このスローガンが過激に思われる方もあるようです。キリスト教の倫理観からすると、このス

ローガンには違和感を覚えるということではないかと思います。しかし、寿の日雇労働者や寿で生活して

いる生活保護受給者が一方的に苦しまなければならない社会はおかしいのではないか。社会正義を貫くた

めにも「黙って野垂れ死にするな! 生きて奴らにやり返せ!」ということではないかと思います。


・このように私たちの社会には差別・抑圧が、見える形で、また見えない形で、蔓延していますの

で、直接的な報復は認められていませんが、言論や裁判による訴えは認められているのです。そうでなけ

れば、社会正義は踏みにじられたままになってしまいます。


・もし「あなたがたの聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わた

しは言っておく。悪人に手向かうな」というイエスの言葉が、やられたら、やられ放しでいていろ、何を

やられても逆らってはいけないという奴隷の倫理の押し付けだったら、そこに福音があるでしょうか。人

間の解放の喜びの響きがあるでしょうか。


・先程のいじめを巡る裁判とも関係しますが、学校でいじめられた子供が、自分の命に手をかけてしまう

のは、いじめの厳しさによって自分を消し去ってしまう以外にないと思ってしまうからでしょう。そのよ

うに思わせてしまう側がいけないのであって、その子に責任があるわけではありません。


・このように考えてきますと、この「悪人に手向かうな」というイエスの教えを、どう理解したらよいの

か、分からなくなってきます。


ウルリッヒ・ルツは、イエスやマタイとは違って、私たちは世俗的権力に責任をもって参加する可能性

が与えられているので、一つのディレンマに立たされると言います。「世界に対して福音の証言を伝え、

また教会自体の中でそれを生きるというキリスト教的課題と、政治の領域も含んで、世俗の領域を人間の

最善のために共に与って形成するというキリスト教的課題の間に、一つの緊張が存在する」。


・「・・・・・この状況においては、私見によれば、普遍的教会における山上の説教の標準的解釈の伝統に基

づいて自らの方角を定めることはもはや十分ではない。そうではなくて、その他の解釈の伝統と対話しつ

つ、新しい、われわれ自身の今日的状況に合致した解釈を構想する必要がある」と言って、それ以上のこ

と、「われわれ自身の今日的状況に合致した解釈」は提起していません。この「マタイのテキストが発信

している暴力否定と神の国にその起源がある愛の要求の過激性を大切にしながら」と注記しているだけで

す。


(このウルリッヒ・ルツの部分は、実際の説教では割愛しました。)


・イエスは、「目には目を、歯には歯を」という社会正義の定めを否定しているわけではありません。

「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」と言うことによって、「目には目を、歯

に歯を」がもつ行き過ぎを問うていると言えるでしょう。


・「悪人に手向かってはならない」というところを、本田哲郎さんは「威圧者がするように対応するな」

と訳しています。威圧者は相手を全面否定するので、相手の存在を認めません。つぶそうとします。イエ

スはそうすることは自分もつぶすことだと言おうとしたのでしょう(滝沢克己)。そのことを踏まえるこ

とが、人間が生きていくことの最も大切な基盤であると。


・「目には目を、歯に歯を」という社会正義の定めは確かに必要であり、人間が社会生活をしていくとき

は欠かせないものでありますが、その根底には、悪人も抹殺できない。その存在を全面否定することはで

きない。これがイエスの言わんとされたことではないでしょうか。


・「罪を憎んで、その人を憎まず」と言われます。私はテレビのサスペンスが好きでよく観ますが、最後

によく犯人に、「罪を償ってまたやり直しなさい。あなたを待っているから」という言葉が投げかけられ

ます。犯した罪は償わなければなりません。しかし、その人の存在は抹消されてはならないのです。


アムネスティでは、「死刑」に反対する理由としてこのようなことが言われています。≪「生きる権

利」は、すべての人が、人間であることによって当然に有する権利です。国籍や信条、性別を問わず、子

どもも、大人も、この世に存在する誰もが、生を受けたときから、この権利を持っているのです。言うな

れば、この「生きる権利」は、人間にとって根源的な、最も大切な権利であり、決して奪ってはならない

ものです。・・・アムネスティ・インターナショナルが「死刑」に反対するのは、「死刑」という刑罰

が、この「生きる権利」を侵害するものであり、残虐かつ非人道的で品位を傷つける刑罰であると考える

からです。・・・、犯罪を処罰することを否定しているわけではありません。しかし、命を奪うことは、

たとえ国家の名の下であっても、正義にはなりません。人為的に生命を奪う権利は、何人にも、どのよう

な理由によってもありえないのです。・・・国家さえもそれを奪うことはできない。これが、生きる権利

を保障する「人権思想」というものであり、アムネスティが抱いている理念です≫。


・一人一人の存在がありのままに受け止められ、受け容れられ、深く愛されて生きることができるとする

ならば、「目には目を、歯に歯を」という報復の正当性を認める社会正義の定めが必要なくなるのかも知

れません。そういうことが可能な私たちに、神さまから与えられている命の根底から、イエスは「しか

し、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」と語られたのではないでしょうか。


・イエスは十字架を前に逮捕されようとしたとき、≪イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を

抜き、大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした≫(マタイ26:51)とき、≪剣をさやに納

めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる≫(同26:52)と言われました。そして自分を逮捕処刑しようと

した人々に無抵抗で十字架の人となりまました。だからと言って、イエスは暴力を許したわけではありま

せん。むしろ体をはって暴力に抵抗し、暴力を超えるものを示ししてくださったのではないでしょうか。


・このイエスの振舞いを通して、≪悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、

左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。だれかが、一

ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたがたか

ら借りようとする者に、背を向けてはならない≫(マタイ5:39-42)というイエスの言葉の真意を受け止

められるのではないでしょうか。


・私たちは、自分と他者である隣人の与えられた「生命の尊厳」を仕え合うことによって大切にしていく

道へと、イエスによって招かれていることを覚えて、その道に邁進したいと願います。