なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(609)

船越通信、№609  2024年3月24日(日)北村慈郎

  • 17日(日)は礼拝後能登支援のスタンディングを京急田浦駅前で行ないました。以下N・Kさんによる報告を転記しておきます。「本日、京急田浦駅前で、11:44~12:28能登半島地震の被災地支援募金活動を行いました。参加者は6名でした。春らしい温かい日でしたが、風が強く、手に持つプラカードが飛ばされそうでした。今回は、小学生や中学生の男子を中心に、8人の方が募金に協力してくださり、2,166円集まりました。2月分と合わせて、5,460円です。一方、教会の募金額は11,000円になりました。 募金の送付先は、役員会で検討中です」。スタンディングを終えて、教会に戻り、後片付けをしてから私もバスで追浜に出て、鶴巻に帰りました。
  • 18日(月)は、お天気が良かったので、一回目の食事を終えて、お昼ごろから小田急で秦野駅まで行き、そこから30分ほど歩いて、権現山の下にある秦野市の清掃関係の建物と向かい合って建っている富士見の湯に行きました。この富士見の湯は露天風呂から箱根山系から丹沢山系へと山並みが続いている正面位に富士山が見えるのです。それで名前も富士見の湯とついているのだと思います。ただ富士山が見えるのは遠景で、御殿場のアウトレットの中にある木の花の湯のように真正面に雄大な富士山が迫ってくるようには見えません。それでも体も心も癒されるひと時を持つことができました。帰りはこの温泉のバスで秦野駅まで送ってもらい、鶴巻に帰りました。
  • 19日(火)は、31日のイースター礼拝の案内を会友の方々に出す作業と、遠方の教会員と数名の会友の方々には教会だより、船越の丘から第28号を送る作業をして、投函しました。2023年度はイースターが2回あることになります。今、日曜礼拝ではヨハネによる福音書を扱っていますが、ちょうどラザロの復活の記事に来ていますので、31日のイースター礼拝では、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはない」というイエスの言葉が含まれている箇所(ヨハネ福音書11章17-27節)を説教のテキストにすることにしました。
  • 20日(水・休)は対面による久しぶりの平和フェスタが、午前10時半から溝ノ口教会でありました。平和フェスタは教区の社会員会主催で、教区の諸委員会が参加して行なわれるフェスタです。諸委員会がブースを出して、それぞれの活動をアッピールするとともに、委員会によっては食べ物や飲み物を売ってそれぞれの資金や献金にしたりします。会場の溝ノ口教会はカレーを売り、会堂耐震補強工事の返済資金の一部にし、川崎戸手教会はチジミを売って、朝鮮初級学校の建築資金の一部にするということでした。最初に礼拝があり、その後午後1時まで各グループのブース展示や物品販売、昼食の時間で、午後1時からジャーナリストで映画監督でもある古井みずえさんの講演「ガザの人々」がありました。私はブースの時間、今回は基地小のブースを担当し、来て下さる方に資料の説明をして、持っていって下さる方に持ち帰ってもらいました。中には日本の政治の在り方について話して行かれた方もありました。その方は、日本はスイスのような中立国になるのが望ましいと言っていました。また、自衛隊は防衛のためには必要であるが、攻撃はしない形で存続させるという考えのように思いました。私はコスタリカもありますのよねと言って、その方と暫く日本の政治の在り方について話し合いました。私の希望としては、軍隊を持たない外交によって安全保障を構築していく平和国家に日本がなって欲しいと思っています。基地小の資料は7~8人の方々が持って行ってくれました。午後1時になり、礼拝堂で古井みずえさんの講演がありましたが、私は2時15分ごろ講演を途中で失礼して、この日訪問を約束している方の所に伺いました。古井みずえさんは、ガザの人々の日常性を丁寧にスライドによって講演してくれました。しばらく前に福島東電第一原発事故で被災した飯館村の3人の女性の被災後の生活を淡々と追って描いた、古井みずえさんの映画を観ましたが、今回はスライドによる講演でしたが、その手法は同じだと思いました。理念や思想が前面に出て来るのではなく、淡々と人々の現実の生活を描くのです。映画監督としては当然のことなのでしょうが、それだけに観る者、聞く者の心を揺さぶります。<24年2月16日時点で、ガザ地区では死者が少なくとも2万8000人を超えた。ガザ地区の人口がおよそ220万人であることから、「100人に1人」以上が戦争で命を落としたことになる>と言われます。一刻も早い戦争終結を願います。私たちが出来ることは僅かですが、この日もアハリー・アラブ病院へのカンパをしました。
  • 20日朝に寿地区センター主事からメールがあり、2月23日(土)10:00-12:00に開催を予定していた寿地区活動委員会の集会の延期の連絡がありました。船越教会の17日(日)の週報にはその集会案内を掲載していましたので、21日(木)夜の24日(日)週報原稿配信の時にはそのことを失念していましたので、22日(金)の朝集会延期のお知らせをメールで皆さんに送らせてもらいました。
  • 21日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに出かけました。この日は寒いというので、厚着をして出かけました。前日の平和フェスタでお会いした上大岡教会のメンバーのK・Mさんと、衆議院議員会館前の道路で一緒になりました。K・Mさんは月に1回か2回木曜日の座り込みに参加しています。この日は何時も来ている方の一人がお休みで、4人で座り込みました。途中杉並に住んでいるというユニオンの二人の方が参加してくれました。この二人は先日三里塚闘争のチラシを私たちの所に持って来た方ですが、私たちの座り込みを知って、この日はわざわざ来てくれたようです。この日は天気は快晴に近く、よかったのですが、時々突風が吹いて来て、その都度石壁に貼ってる横断幕やチラシ(プラカード)が飛ばされそうになり、それを防ぐのに苦労しましたが、何とか最後まで続けることが出来ました。午後4時少し前に片づけて、散会しました。

ヨハネによる福音書による説教(53)「起こしに行く」ヨハネ11:7-16

3月24(日)受難節第6・棕櫚の主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   171(かみさまのあいは)

https://www.youtube.com/watch?v=fSXOcCTZv-8

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編64編1-11節(讃美歌交読文67頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章7-16節(新約188頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     441(信仰をもて)

https://www.youtube.com/watch?v=Ito3vJhhxlg

⑨ 説  教   「起こしに行く」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は、教会歴ではイエスエルサレムにろばの子に乗って入城された日で、棕櫚の主日になります。今日から受難週で、来週の31日の日曜日がイースターになります。今年は棕櫚の主日イースターも、礼拝説教は、ヨハネ福音書の続きからメッセージを聞きたいと思います。今日はヨハネ福音書の11章の7―16節になります。

 

7節、8節を読みますと、「それから、(イエスは)弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう』。弟子たちは言った。『ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか』」。と記されています。ユダヤ人がイエスを殺そうとしたということは、すでに9章の終わりに書いてありました。弟子たちは、そのことを思い出したのでしょう。彼らはイエスの出発を押しとどめようとします。

 

しかしそれに対して9節で、「イエスはお答えになった。昼間は十二時間あるのではないか、昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」と書かれています。このイエスの言葉は、9章の生まれつきの盲人の癒しの物語の中で、イエスが「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」(9:4,5)と言われたのと基本的には同じことを、語っているように思われます。それは一言で言えば、イエスのこの地上での働きの時間、活動の時間は限られている、ということです。やがて光のない夜を迎えなければならないということです。それゆえに、まだ光のある、人々がつまずくことのない昼間の時間を、用いつくさなければならないといことです。したがって、弟子たちが抱いているようなユダヤ人に対する恐れに妨げられずに、自分たちはベタニヤに行かなければならないと、イエスは言われるのです。

 

それからさらにイエスは言葉を続けて、11節で、「わたしの友ラザロは眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と言われます。イエスがここで、「ラザロが眠っている」と言われたのは、すぐあとの13節で説明されているように、ラザロが死んだということを言われたのですが、しかし弟子たちはそれを誤解して、ラザロは文字通り、眠っていると言われたのだと思い、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」などと言うのです。

 

しかし、14節、15節には、「するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼ところに行こう』」と、記されています。

 

この15節でイエスが言っておられることは、次のようなことだと思います。<もしあの時、ラザロの病気の報せを聞いて、直ぐにベタニヤに向けて出発していたなら、恐らくまだ生命のあるラザロに会うことが出来たであろう。しかし、その場合には、あなた方が経験するのは、病気の癒しという奇跡に過ぎなかったであろう。だが私は、あなた方にさらに大きな奇跡を示したいと願っている。すなわち、死人の甦りという奇跡を示したいと願っている。そしてそのことによって、あなた方の信仰を喚び醒ましたいと思っている>。――そのように、イエスは、15節で言っているのだと思います。ですからイエスは、「わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ」と言われるのです。

 

そのようなこと、すなわちイエスがラザロの死からの甦りという奇跡を示すことによって、弟子たちの信仰を喚び醒まそうとして、出発を二日延ばされたということ、それはあるいは人間的に言うならば、問題のあることかも知れません。ラザロというひとりの人間の扱い方として、問題のあることかも知れません。少し先の21節で、マルタは、イエスを迎えた時、イエスに向かって、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言っています。そして、さらに先の32節でも、今度はマリヤが、同じ言葉をイエスに対して語っています。このマルタとマリヤのイエスに対する言葉の中には、イエスに対して多少の不満の気持が、いわばイエスをなじるような気持が、含まれていたと言っても差し支えないと思います。

 

しかし私たちは誤解してはならないと思うのですが、ラザロに対する、またラザロ一家の人々に対するイエスの愛に、何の欠ける所があったのでもありません。そのことは、この聖書箇所でくり返し、イエスの彼らに対する愛が強調されていることでも、明らかだと思います。すなわち、3節では、「主よ、ただ今、あなたが愛しておわれる者が病気をしています」と言われ、5節では「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」と記されています。さらにずっと先の方の35節以下では、ラザロの死に対して涙を流されるイエスの姿を見たユダヤ人たちが、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言っています。そのように、ラザロの一家の者たちに対するイエスの愛の深さを、私たちは疑うことができません。

 

その上で、井上良雄さんは以下のように述べています。<しかし、イエスは、そのようにラザロ一家の者たちに注がれるのと同じ愛によって、人間全体を包み給わなければならないのです。彼は、人間全体に対する救いの御業を推進し給わねばなりません。そのためには、ラザロの死を通し、神の栄光とイエス御自身の栄光が示されなければなりません。ラザロの死からの甦りという大きな出来事が、人々に示されて、それによって、弟子たちの信仰が喚び醒まされなければなりません。そういう大きなご計画のなかで――人間全体の救いという壮大なご計画の中で、ラザロの死が用いられるのです。そしてそのために、イエスがベタニヤへの出発を二日延期されるということも起こるのです。/今、申しましたことは、一般化して言えば、世界全体、また人間全体に対する神の救いのご計画の中で、私たち一人一人の問題がどのように位置づけられているか、どのように考えられているのかという問題だと言うことができるかと思います。新約聖書では、人間一人一人の問題が決して無視されてはいないけれども、しかし、それが主題とはなっていないし、中心的な問題とはなっていないということです。そして、新約聖書の主題は人間全体に対する神の救いの計画であって、そういう壮大な計画の中に組み入れられ用いられるということの中に、一人一人の人間の祝福も救いも喜びも希望もあるのだということです>。

 

ところで、そういう14節、15節のイエスの言葉があって、最後にイエスが、「では、彼のところへ行こう」と言われて、弟子たちの一行は、ベタニヤに向けて出発します。16節に、弟子の一人であるトマスが、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」という危険に向かって進んで行く自分たちの決意を表明する言葉が記されています。                       

 

いかに弟子たちが重苦しい空気に包まれていたかを、トマスははっきりと語っているのです。ただ弟子たちに残されたことは、イエスひとりを死なせるのでなく、共に死に赴くことによって、その忠実な同志としての道を示す以外にないと、トマスは考えたのでしょう。イエスが弟子たちに対し、何か全然別なものを与えようと考えておられるのに、トマスにはまだそれが分からないのです。それはイエスと共に死ぬことでなく、イエスのために生きることです。それはイエスの使者として世界中にイエスの福音の喜びを伝え、イエスに従って人々に仕えて生きることにほかなりません。

 

キルケゴールは『死に至る病』の中でこのように述べています。「…キリストは、ラザロを死からよびさましたあの奇跡、したがって<この病>は死に至らなかったばかりではなく、キリストが予言した<神の栄光のために>(同11:4)のあの奇跡のことをかんがえられておられたのであることをよく知っている。ああしかし、たとえキリストがラザロをよびさまさなかったとしても、この病が、死そのものさえが、死に至るものでないということが、同じように言えるのではあるまいか。…<復活にして生命>(同11:25)であるキリストが墓に歩み寄るというそのことだけで、この病は死に至らないことを意味していはしないであろうか。キリストが現にそこにいますということが、この病が死に至らないことを意味してはいないであろうか! またラザロが死人の中から呼びさまされたとしても、結局は死ぬことによってそれも終わりを告げねばならないのであるとしたら、それがラザロにとって何の役に立つことであろう。…いや、ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだからこの病は死に至らないと言えるのではなく、よみがえりであり、生命であるキリストが、現にそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである」。

 

ここには、まことに深い、イエスの言葉への洞察が記されています。キルケゴールが書いているように、ラザロが死んでよみがえらされたので、「この病は死に至らず」と言われているのではないのです。なぜなら、よみがえらされたラザロの生命そのものは、決して永遠の生命ではなく、「結局は死ぬことによってそれに終わりを告げねばならないものである」としたら、そのこと自体は驚くべき奇跡ではありますが、ただ今死ぬべき生命が、しばらく先に引き延ばされたというだけのことに過ぎないのではないでしょうか。復活されたラザロも、やがて死を免れることはできなかったのですから。

 

森野善右衛門さんは、「イエスは、人生の医者としてこの世に来られたかたです」と言って、このように述べています。「ですから、イエスの前では、自分の健康を誇ることが死に至るのであり、自分の病を自覚することが生命に至る道に入る第一歩なのであります。イエスは、死に至る病の中にある人間の世界に、真のいやし、救いと、生きる希望をもたらすために来られたのです。真に恐るべきもの、死に至る病とはなんであるかを示されたのです。/「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」(マルコ2:17)とは、イエスの語られた意味深い言葉です。自分が義人であり、健康無比であることを誇っていたファリサイ派の人々が、実はイエスの目から見てもっとも重大な病にかかっていたのであります。しかも彼らは、そのことの自覚がなかった。そこに、死に至る病が確実に進行していたのです。私たちもしばしば自己過信をして、自分の病に無自覚であることが多いのです…。人生の医者であるイエスの前に、自分は丈夫であるから医者はいらない、と言い切れる人が果たしているでしょうか」と。

 

私たちは、自らの病を自覚して、人生の医者であるイエスの導きに従って健康な人間として生きていきたいと願います。

 

主がそのように私たち一人ひとりを導いてくださいますように!。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は棕櫚の主日です。イエスエルサレムに群衆の歓呼の叫びを受けて、ろばの子にのって入城された日です。しかし、この週の金曜日にはイエスは十字架に架けられて殺されます。そのイエスの生涯と十字架と復活の出来事を通して、イエスは今も私たちの人生の医者として、病んでいる私たちを癒してくさり、人間として健康に生きるように導いてくださっていることを覚えて、感謝いたします。どうかそのイエスに従って生きていくことができますように、私たち一人ひとりをお導きください。
  • けれども、この世界の現実は、私たち人間の病がますます進行しているかに思われるほどに、ウクライナやガザでの戦争をはじめ、分断と対立が各地で顕在化しています。気候変動による災害も頻発しています。そのために幼い子供の命をはじめ、沢山の人々の命や生活が奪われています。
  • 神さま、どうか世界に平和と和解が実現しますように導いてくさい。苦しむ人々を助けてください。そのために私たちを平和と和解の使者として、できることをしていくことができますようにお導きください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   502(光の在る間に)

https://www.youtube.com/watch?v=v5Reex3AQ7c

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

飯塚光喜牧師を天に送って(鶴巻通信30)

  • 「船越通信(608)」で、<飯塚光喜牧師のことは、昨年の夏に行われた「障がい者と教会の集い」(主題「飯塚光喜牧師から問われたことを考える」)でした私の発題が、この日出席者にプログラムと共に配布された報告集に掲載されていますので、そちらの方をご覧いただければ幸いです>と書きましたが、その私の発題を、「鶴巻通信」として掲載します。

 

 

飯塚光善牧師を天に送って~飯塚光善牧師のめざしたものと私たちが継承すべきもの~       2023年8月27日(日)障がい者と教会の集い発題

       

                            北村慈郎

 

最初に少し私の個人史についてお話させてもらいたいと思います。キリスト者になってからの私の個人史の中で大きな出来事は、神学生時代から最初の任地である足立梅田教会時代の10年間に関わった廃品回収を生業(なりわい)としていた人たちとの出会いです。当時そのような人たちを括弧つきで「バタヤさん」と呼んでいました。足立梅田教会がある地域は梅田町ですが、その梅田町に隣接して関原町や本木町がありました。本木町に「バタヤさん」が多く住んでいました。仕切屋という「バタヤさん」が集めてきた廃品を買い取るところがあって、その仕切屋さんが長屋を持っていて、そこに「バタヤさん」が住んでいました。その長屋は、3畳ほどの部屋が並んでいる隙間風が入る劣悪な建物でした。すでにその頃東京都が仕切屋さんの場所を買い上げて、そこに5階建てのアパートを作り、「バタヤさん」を入居させていましたが、まだ仕切屋さんの長屋で生活していた人も結構いました。私は神学生時代から本木町にあった隣保館というセツルメントで先輩が始めた「バタヤさん」の集会を、先輩が卒業してそれぞれの任地に行くことになったので、同級生の友人と二人で引き継いでその集会の責任をもっていましたので、足立梅田教会の牧師になってからもその集会を続けていました。

私が足立梅田教会の牧師時代に「バタヤさん」の中に洗礼を受けた人がいて、足立梅田教会のメンバーに数名の人がなっていました。その一人の方が真冬に心不全で仕切屋さんの長屋で亡くなりました。島田さんという、相当目の不自由だった人ですが、私はその知らせを受けて、長屋に行き、島田さんが亡くなっている状態を見ました。集めたくずの山の中でかろうじてつくられている寝床で冷たくなっていました。猫がいて、布団の周りには猫の糞が散乱していました。私は仕切屋さんと福祉の方にお願いして、教会で葬儀を出すようにしました。そして島田さんのお骨は、当時足立梅田教会には墓地がありませんでしたので、東京教区の墓地にカロートを買って、埋葬しました。島田さんのような方が他にお一人いて、二人の方のお骨が東京教区の墓地に埋葬されています。今は合葬になっていますが、二人の身元引受人に私がなりましたので、今は来なくなりましたが、長い間東京教区の墓前礼拝の案内が私の所にも来ていました。

私は、この本木での経験を通して、イエスは誰のために死んでくださったのかということを考える時に、「バタヤさん」のようなこの社会の中で最も小さくされている方々のためではないかと思うようになりました。そのようなイエスの生涯と死が、わたしへの問いであり、そういう形でイエスの生涯と死は、私のためでもあるのではないか、と思うようになっていきました。私は、その生き方や信仰観からすれば、1960年代後半に山谷に入って活動された伊藤之雄さんの影響を強く受けていますが、伊藤さんより先に山谷で活動していた中森幾之進さんの「下に登る」や婦人保護施設をつくった深津文雄さんの「底点志向者イエス」と言われるようなイエス理解に共感を覚えています。イエスは、上をめざしたのではなく、「下」を、「底点」をめざして生きて、死んで、甦って、今も私たち一人一人に「わたしに従ってきなさい」と招いておられるのではないかと思うのです(マルコ10:45参照)。

障がい者との関りは、名古屋の御器所教会時代(1977年4月~1995年3月)に脳性麻痺の方が教会員にいて、愛知西地区だったと思いますが、神奈川教区の障がい者と教会の集いのような会を一年に一回開いていましたので、その集いには彼の付き添いで毎年必ず参加していました。彼は晩年三重の菰野にある聖公会の施設で生涯を終えるのですが、私は、1995年に紅葉坂教会の牧師になってからも、彼の身元引受人になっていましたので、何度かその施設に彼を訪問し、彼が帰天したときに私が彼のお骨を引き取り、その後彼も教会員の一人であった名古屋時代に私が牧師をしていた御器所教会の墓地に埋葬しました。名古屋時代に彼との関係もあって、紅葉坂教会の牧師になってからも、この神奈川教区の障がい者と教会の集いには毎年参加するようにしてきました。

飯塚光喜牧師とは、この障がい者と教会の集いによって初めてお会いしました。それが1995年だったと思います。紅葉坂教会の牧師になった最初の年の夏だったと思います。その時確か先生から私と一度話したいと言われ、お話しする機会を持ちました。その時に私ははじめて藤沢ベテル伝道所の設立の時に紅葉坂教会が関係教会を引き受けていたということを知らされました。私が紅葉坂教会から招聘される時には、紅葉坂教会から紅葉坂教会が藤沢ベテル伝道所の関係教会であるということは聞いていませんでした。そのことからも明らかなように、当時の紅葉坂教会には藤沢ベテル伝道所の関係教会であるという意識はほとんどありませんでした。飯塚先生は、藤沢ベテル伝道所の設立に関係教会として関わった紅葉坂教会との関係を、設立の時だけでなく、ずっと紅葉坂教会を藤沢ベテル伝道所の関係教会として意識されていました。紅葉坂教会と藤沢ベテル伝道所との間に、そのズレができたのは、後でわかりましたが、私はこのことを知って、紅葉坂教会の役員会に諮って、紅葉坂教会と藤沢ベテル伝道所が関係教会であることを、改めて確認し、それ以来毎年9月の初めの藤沢ベテル伝道所の創立記念の礼拝には役員を藤沢ベテル伝道所に派遣することと、私が年度末に藤沢ベテル伝道所を訪問することを決め、それ以来、私は飯塚光喜牧師とは比較的よく話をしてきた者の一人ではないかと思っています。

それは私が紅葉坂教会の牧師だったということもありますが、私自身が若い頃父の会社の倒産による経済的な貧しさや筋萎縮症という全身動けない母の病気との出会いという形で、貧困や病による人間の痛みを多少味わっているということが、目の不自由な飯塚光喜先生の痛みを他人事とは思えない、先生の痛みへの共感を、勿論十分とは言えませんが、私が持つことが出来たということも、先生との関係を最後まで持続できた要因の一つではないかと思います。この様々な苦しみを負っている人間の苦しみへの共感は、苦しんでいる人と共に生きるという体験をしないと、私たちはなかなか持つことが出来ないのではないかと思います。勿論、共に生きるという体験をしたからといって、必ず持てるというわけではありませんが、体験がないと苦しみを持った人との関係が観念的になりがちのように思います。

例えば、健常者のキリスト者が、イエスの教えである「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めを、自分は実践しなければならないという意識が先走って、障がい者の方のために何かしてあげなければと思って、一生懸命に相手に関わろうとするということがないとは言えません。こういうあり方は、善意の強制になりかねないもので、相手は余計なお世話だと思うのではないでしょうか。その結果、その人はひとり相撲をしているだけに過ぎないことになります。もう一つ、私たちが苦しみを持った他者との関りで犯しやすい過ちがあります。それは苦しみを持った人と共に生きていくことに自分をかけていくというよりも、その人の側に自分が立って、その抑圧差別をなくそうとする運動を自己目的にしてしまうことです。それは、或る意味で苦しむ人を利用して運動そのものに自己没入して、結果的に苦しんでいる人からの収奪になりかねません。

そういうことからしますと、私たちの中には、飯塚光喜先生のやり方に違和感を持たれた方もいるかもしれませんが、飯塚光喜先生は、この障がい者と教会の集いにしても、社会福祉小委員会にしても、障がい者としての当事者性を大切にされたように思います。当事者性とは、障がい者自身が中心になっていくということです。ですから、障がい者と教会の集いは、障がい者と共に1泊2日でも一緒に過ごすということをメインに設定されていたのではないでしょうか。生活を共にし、出会いを通してお互いに知り合うということを経験するということです。この集いの副題に「知り合うこと、ふれ合うこと、生活を共にして」とある通りです。

滋賀県止揚学園という福井達雨さんが始めた障がい児・者の施設があります。止揚学園は入所者と職員家族の生活共同体の形をとっていて、食事は全員でしています。私は、当時名古屋の御器所教会の牧師として、私が牧師になる前から御器所教会で行われていた中高生の夏のキャンプを近江八幡で行ない、その中の一日を止揚学園でワークをさせてもらって、朝から夕方まで止揚学園で過ごさせてもらっていました。ですからお昼の食事は、私たちもバラバラに入所者と職員家族が一緒の食事の席に加えてもらっていました。障がいをもった方の中には、食事をスムーズに飲み込めずに、口から吐き出してしまう子もいました。そのような時に御器所教会の子どもたちはびっくりして、中には自分の食事が出来なくなる子もいましたが、止揚学園の職員の子どもたちは、そのような時にも慌てずに自然に対応していました。共に生活するということは、そういうことなのだと、その時納得させられた経験があります。異質な他者と出会い、触れ合うことによって相手を理解し、それまでの自分も変えられて、共に生きるようになっていくのではないでしょうか。

私は御器所教会の牧師時代以来、異質な他者である隣人の発見・変容・共生という形で、底点志向者イエスが目ざした、最も小さくされた人を中心にした共生の場として教会を考えてきました。そのような私の教会についての考え方を、私が当時の教団議長の山北宣久さんから教師退任勧告を受けた頃、確か2009年だったと思いますが、新教出版社の小林さんから勧められて、自分の牧会の中で話したり、書いたりしたのをまとめて、『自立と共生の場としての教会』という本にしています。この本はキリスト教関係の点字図書館から連絡があって、点字にもなっていると思います。飯塚先生も藤沢ベテル伝道所で洗礼を受けたり、転入する方に一時期だと思いますが、この本をプレゼントにしていたということを聞いています。この本で私が書いていることは、イエスの出来事(福音)によって、私たちは個として自立すると共に、隣人である他者との共生へと招かれているということです。共生への招きは、隣人である他者との出会い(隣人の)発見・(相互の)変容・(共に生きる)共生の繰り返しではないかということです。教会をそういうイエスの出来事(福音)に基づいた自立と共生の場であるというのが、私の教会についての考えです。

日本基督教団の平均的な教会は、生活にある程度余裕のある健常者が担い手の中心になっています。障がい者が担い手の中心になっていて、健常者は障がい者の支え手として関わっているような教会は、あっても僅かでしょう。神奈川教区では藤沢ベテル伝道所くらいかも知れません。障がい者中心の教会からしますと、比較的生活に余裕のある健常者中心の教会は批判の対象にならざるを得ないでしょう。飯塚先生から、我々牧師の説教や福音理解についての厳しい批判をしばしばお聞きしましたが、先生からしますと、我々の説教や福音理解はイエスの福音に反するように思えたのではないかと思います。特に現在の日本基督教団の主流の教会は、底点志向者イエスにではなく「信仰告白と教憲教規」に基づくドグマ化されたところがありますので、それに対する飯塚先生の批判は強烈でした。

先程深津文雄さんの「底点志向者イエス」について触れましたが、飯塚光喜先生はこの深津文雄さんの「底点志向者イエス」を継承していると思います。深津文雄さんは社会的に底点の人とは言えませんが、飯塚光喜先生は視覚がい者として、或る意味で御自身が社会的に底点の人でもあるわけです。その意味では深津文雄さん以上に飯塚先生は当事者性をもっていた人だと思います。当事者性を持っている人でも、そうでない他者を自分の側にうまく取り込みながら関係を築こうとする人もいると思いますが、飯塚先生は当事者性をありのままに出して他者との関係を築こうとされたのではないでしょうか。それだけ健常者の側は他者の持つ痛みへの共感が求められますので、その共感力に乏しい人には飯塚先生の言葉や行動が自分を攻撃するように思えてしまうのではないでしょうか。そういう意味で、飯塚光喜先生は稀有の人だと思います。その強く断定的な物言いに多少抵抗を感じる人もいると思いますが、私自身は、飯塚先生の強い物言いには先生の当事者性があらわれていると思っていました。

この障がい者と教会の集いにしろ、社会福祉小委員会にしろ、飯塚先生の遺志を引き継いで行ってくださることを希望して、私のお話を終えたいと思います。

船越通信(608)

船越通信、№608  2024年3月17日(日)北村慈郎

  • 9日(土)には13:00から紅葉坂教会で「飯塚光喜牧師お別れの会」があり、私も参加しました。30分前に紅葉坂教会に着き、受付の所に4月6日の支援会コンサートのチラシを置かせてもらいました。受付をすませ、礼拝堂の後部の席に座り、会が始まるのを待ちました。その間久しぶりにS牧師と話をしたり、紅葉坂教会の方々とも挨拶を交わしました。特にかつて障がい者と教会の集いの実行委員をしていて帰天されたO・Aさんのお連れ合いであるO・Hさんとも言葉を交わすことができました。お別れの会は、第1部の追悼礼拝と第2部の「ありし日の飯塚先生を忍ぶ」に別れて行なわれました。追悼礼拝は、藤沢ベテル伝道所で飯塚光喜牧師と共に担任教師をされた二人の教師が司会と説教を担当されました。その後第2部の飯塚先生を忍ぶ会では、私もお話しさせてもらいました。この日は先生との個人的なお付き合いのことを話させてもらいましたが、飯塚光喜牧師のことは、昨年の夏に行われた「障がい者と教会の集い」(主題「飯塚光喜牧師から問われたことを考える」)でした私の発題が、この日出席者にプログラムと共に配布された報告集に掲載されていますので、そちらの方をご覧いただければ幸いです。お別れ会は15:30頃に終了し、私は京急日ノ出町駅から京急に乗りました。すると同じ車両に船越教会のT・Tさんも乗っていて、金沢文庫まで一緒に行き、そこで別れ、T・Tさんは特急で追浜駅へ、私は普通で京急田浦で下車して教会に行きました。
  • 10日(日)は礼拝後役員会を行ないました。役員会では、主に3月31日(日)のイースター礼拝の聖餐式の準備の確認と、2024年度の教会総会の準備について話し合いました。会計報告では、2023年度も皆さんに支えられて、マイナスにはならないで3月末を迎えることができそうで感謝です。2024年度には、今年の秋に修養会を開いて「船越教会の今後について」話し合うことにしました。この日は役員会を終えて、比較的早めに船越教会から鶴巻に帰りました。
  • 13日(水)には、船越通信(607)を私のブログに掲載したところ、去る教区総会での一人の方に対する按手礼保留動議への疑問・批判のコメントがありました。そのような意見があることは予想していましたので、そのコメントには丁寧に、神奈川教区の「オリエンテーション要綱」と「教区形成基本方針」を添付した文章を書いて、これもブログに掲載しておきました。関心のある方は私のブログを御覧ください。この日は午前中早めに、毎月一回歯石を取ってもらっている歯科医に行きました。その後帰ってから一回目の食事をしました(私は一日2食派です)。この日は三週間に一回14食の冷凍の総菜が宅急便で届く日でしたので、食事を終えるころインターホンが鳴って、ヤマトの配達員からそれと受け取りました。また、この日は午後6時から大和のシリウスの会議室で県民共闘会議幹事会があり、少し早めに行き、大和駅近くで2回目の食事をしてから、私も基地・自衛隊問題小委員会(基地小)発行の通信第2号を持って久しぶりに参加しました。この県民共闘会議には基地小も構成員になっているからです。この会議には厚木・座間・相模補給廠関係の運動体の方々が主に出席しています。米軍基地と自衛隊関係の状況報告と5月に行なわれる総会と秋に大和で開催されるピースフェスティバルについて協議しました。この日基地小の通信第2号を10部持って行き、受付に置かせてもらいましたが、すべてなくなりました。会議は1時間で終わり、私は鶴巻に午後8時ごろには帰れました。
  • 14日(木)は、何時ものように国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。この日は比較的暖かな日でしたが、それでも日陰に座り込んでいると、体が冷えてきますので、時々日差しのある所に行って、からだを温めました。この日は私たちが座り込んでいた所に、三里塚を闘う東京実行委員会の方でしょうか、二人の方が来て、道行く人にチラシを配っていました。しかし、殆どの人はチラシを受け取らないで、その場を通り過ぎていきました。三里塚闘争は半世紀以上続いていますが、昨年も国はある方の農地を強制執行していて、その阻止の闘いが続いています。ある面では三里塚で行われていることが、辺野古でも同じことが国家によって行われているわけです。国家って何なのでしょうか。改めて萱野 稔人さんの著書『国家とはなにか』(2005年)を思い起こしました。この本では国家は公認された暴力団のように、暴力装置であるということが記されています。機動隊や自衛隊(軍隊)を考えると、国家は暴力によって成り立っているということを認めざるを得ません。日本の国は、平和憲法を持つ平和国家であるとすれば、市民(「国民」)がコモンの自覚を持って民主的な市民社会を形成すると共に、自衛隊を縮小して災害救援隊にし、機動隊や公安をなくして市民警察にして、国家の機能を最小化することが必要ではないかと思います。これは日本だけでは難しいので、世界全体がその方向に行くことを期待したいと思います。しかし、現状はそれとは反する国家同士の戦争や民族紛争が頻発しており、国連も力を失っており、国家間・市民(「国民」)同士の経済的格差も広がり、逆方向に向かっているかに思えます。それでも希望を失わずに歩んでいきたいと願っています。この日は、座り込みを午後3時で終わらせてもらい、一人で先に失礼しました。午後5時半からズームで支援会の世話人・事務局会があるからです。参議院会館前の道路の壁に貼っていた自分のグッズを取り外して袋に入れて、私は国会議事堂前の地下鉄の駅に向かいました。その駅の出入り口はちょうど官邸前の交差点にありますが、この日も官邸前の交差点には、大浦湾の土砂投入反対の二枚の大きな横断幕を貼って、一人の沖縄出身の方が座り込んでいました。その方の思いを想像しながら、私は鶴巻に帰りました。鶴巻に帰ってから、2回目の食事を素早く済ませ、午後5時半からの支援会の世話人・事務局会のZoomで参加しました。この日は、2月23日荻窪教会で開催した支援会のコンサートの報告を含めて、4月6日紅葉坂教会で開催される第2回のコンサートと支援会の総会について話し合いました。また、今年は秋に教団総会がありますので、その準備についても少し話し合いました。

ヨハネによる福音書による説教(52)「この病は死に至らず」ヨハネ11:1-6

3月17(日)受難節第5主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   152(みめぐみふかき主に)

https://www.youtube.com/watch?v=DNC8hfvxebg

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編22編23-32節(讃美歌交読文24頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書11章1-6節(新約188頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     300(十字架のもとに)

https://www.youtube.com/watch?v=7Tjo4BmEwMY

⑨ 説  教   「この病は死に至らず」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書の中にはいろいろな奇跡物語がありますが、死人が甦らされたというのは、このラザロの復活の奇跡以外にはありません。しかもヨハネ福音書では、このラザロの復活の出来事を境にして、イエスの生涯は急速に十字架の方に向かって行きます。11章の終わりに近い53節に、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書いてあります。ヨハネ福音書の記者は、祭司長・ファリサイ派の人たちがイエスを殺そうとして計画を立てた、その重要な原因を、ラザロの復活の出来事に見ているわけです。そういう意味でも、この奇跡物語は大切であると言うことが出来ると思います。

 

ヨハネ福音書10章では、前回学びましたように、イエスが「わたしは良い羊飼いである」と言われたことが契機となって、イエスに対するユダヤ人たちの憎しみがますます激しくなりました。10章39節、40節には、<そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」と、記されています。そこへ、ラザロが病気になったという知らせがベタニヤからイエスのもとに届きます。そのことが、1節から4節までに、次のように書いてあります。

 

<ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」>。

 

今読みました2節に、<このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である>と書いてありますが、マリアがイエスの足にナルドの油を注いだという出来事は、このヨハネ福音書では、次の12章に初めて出てきます。それが、11章にこのように書いてあるということは、マリアの油注ぎの出来事は、当時の人々にはよく知られて出来事であったのでしょう。そのことを踏まえて、ヨハネ福音書の記者は11章2節にこのように記したのだと思われます。

 

マルタとマリアの姉妹については、ルカ福音書10章にある有名な、イエスを姉妹の家に迎え入れ、もてなしをするマルタとイエスの足下に座ってじっとイエスの言葉に聞き入るマリアという対照的な姿の物語などで、ヨハネ福音書の読者にもよく知られていたと思われます。このマルタとマリアの家は、エルサレムの郊外のベタニアにあって、イエスがしばしば訪れて憩いの家とされていたのでしょう。このヨハネ福音書の記事は、イエスがここの家族を愛し、その姉妹を深く愛しておられたことをよく伝えています。

 

この二人の姉妹がよく知られていたのに反して、その弟ラザロは、このヨハネ福音書だけにしか出て来ません。

 

ところで、そのラザロが重い病気になったということで、姉のマルタとマリアが、ヨルダン川の向こう側におられるイエスのもとに使いを送り、3節にあるように、「あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせます。3節の始めには、原文では「そこで」(岩波、シュラッター「それで」田川)という言葉が入っています。これは姉妹たちが、病気の弟ラザロのことを深く心配して、イエスに知らせ、イエスの助けを得たいという気持ちを示しています。またイエスなら必ず知らせを聞いてすぐかけつけて来て下さるにちがいないという期待もあったに違いありません。なぜなら、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」(5節)からです。

 

ここには、イエスに愛されている者であっても、他の人々と同様、病気になる場合があることが記されています。ベタニヤのラザロは「イエスが愛しておられた者」で、よく知られた二人の敬虔な姉妹の弟でありました。そのラザロが病気で、しかも瀕死の重病であったと言うのです。イエスを信じているからと言って、私たちは病気や死に襲われないというわけではありません。イエスを信じるキリスト者も、他の人と同じように病気になることがあり、必ず死ぬのです。病と死に満ちた世界に生きる私たちは、いつの日か、必ずそれを経験するでしょう。病気は、その本質からして、生身の体への試練にほかなりません。私たちの身体と魂は不思議なほど密接に関係していますので、病気は私たちの身体を悩ませ、弱めるだけでなく、ほとんど間違いなく心と魂も悩ませます。しかし、病の折にも、健康な時とおなじように、イエスは私たちを愛しておられると確信し、忍耐を持ち、喜びを失わないようにしたいと思います。

 

ラザロが病気になった際、その姉妹はすぐにイエスに使いをやり、問題を彼に告げました。彼女らが送った伝言は、すぐに来て、奇跡を行ない、病気を追い出してくれとは頼んでいません。ただ「あなたが愛しておられる者が病気です」とだけ伝え、イエスが最善をなされると心から信じ、すべてをゆだねたのです。愛する者が病気になれば、当然、その回復のために十分な手だてを尽くすべきであります。最良の医学的処置をなす努力をいとう必要はありません。可能なあらゆる方法で、健康をそこねる病と闘い、健全な生活を送る努力をすべきであります。しかし、そうする時にも、ベタニヤの姉妹たちのように、私たちが信じるイエスが病者に対する愛とあわれみといつくしみに富む方であることを忘れてしまわないようにしなければなりません。

 

私は連れ合いが直腸がんステージ4で、肝臓にも肺にも転移している状態で、1年半ほど抗ガン治療を続けて召されましたが、その経験を通しても、可能な限り病と闘う治療を続けることはもちろん、そのことと共に病者を愛してくださっているイエスに信頼して身を委ねることの大切さ思わされました。先ほど「病気は私たちの身体を悩ませ、弱めるだけでなく、ほとんど間違いなく心と魂も悩ませます」と言いましたが、彼女は心も魂も最後まで平静を保っていたように思います。

 

さて4節のイエスの言葉ですが、この言葉で、イエスは、すでにラザロの病気という出来事において、これから何が起ころうとしているのかということについて、語られます。その一つは、このラザロの病気の最後は死では終わらないということです。マルタとマリアの使いの者からラザロの重病の知らせを聞いたイエスは、「この病気は死で終わるものではない」(4節)と言っています。「死で終わるもの」は原文では「プロス・サナトン」ですから、このところは、<この病気は「死に向かって」はいない>(「その病気は死に至るものではなく」田川訳)と訳せます。

 

そして、もう一つは、この病気は「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われています。このラザロの病気を通して、むしろ神が栄光を受けられ、イエス自身が栄光を受けられるというのです。この言葉を聞いて、私たちがすぐに思い出すのは、9章の生まれつきの盲人の癒しのところでも、イエスがこれに似た言葉を語られたということです。イエスが道端で物乞いをしえいる生まれつきの盲人の姿を見て、「この人が生まれつき盲人なのは、神の御業が彼の上に現われるためである」と言われました。その言葉を思い出します。その言葉の場合と同様に、ここでもイエスは、ラザロの病気という出来事を通して、神とイエス御自身が栄光をうけられるということを言っておられるわけです。しかし、この場合には、それだけではありません。この場合には、イエスはあの9章の場合よりもさらにそれ以上のことを、語っていると思います。というのは、このヨハネ福音書でイエスが「栄光を受ける」という言い方をされている場合には、必ずと言ってもいいほどに、イエス自身の死を指して言っているからです。例えば12章23節で、イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言っていますが、それは、彼が十字架につけられて死ぬべき時が来たという意味です。ですから、今日のこの4節でも、ラザロの病気によってイエス自身が栄光を受けると言われる場合に、このラザロの病気という出来事が、イエスの十字架への道行きに繋がり、イエスの死に繋がるということを見据えながら、この言葉を語っているのです。

 

それにしてもラザロが病気であるという知らせを聞いて、イエスはすぐにベタニヤにかけつけようとはしませんでした。6節には、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」と記されていいます。このイエスの態度は、この姉妹とその弟を愛しておられる方らしからぬ冷淡な態度のようには思われはしないでしょうか。イエスは、ラザロが病気だという知らせを使いの者から聞いて、すぐにベタニヤに向けて出発することなく、二日もヨルダンの向こうの地に留まっていたというのです。しかし、それは一体なぜなのか、なぜイエスはすぐにベタニヤに向けて出発しなかったのか、その理由については、ここには何も書いてありません。その理由は少し先の14節、15節でイエス自身によって明らかにされることになります。そのことについては次回触れたいと思います。

 

5節の「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」という言葉に注目したいと思います。このマルタ、マリア、ラザロの三人の姉妹兄弟の性格は、それぞれ異なっていたと思われます。マルタに関しては、他のところに「いろいろなことを心配して、気を使って」いた、と記され、マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」と語られています。ラザロについては特筆されてはいません。けれども、これら三人のすべてがイエスに愛されていたと言われているのです。彼らはみな、神の家族に属し、イエスは彼ら全てを愛されたのです。このことからライルはこのように言っています。

 

キリスト者を評価する場合、この点を十分に覚えていなければならない。いろいろな性格の者がおり、恵みの神はすべての信仰者を一つの鋳型にはめ込まれないことを絶対に忘れないようにしよう。キリスト者であることの土台は常に一つであり、神の子らはすべて悔い改めの経験を持ち、信仰があり、きよく、祈り深く、みことばを愛する者であることを十分承知しながらも、その気質や感じ方の傾向にはかなり幅があることを受容すべきである。他の人たちが自分と同じでないからといって、過小評価してはならない。園にある草花は様々であるが、園の所有者はすべてに関心を持っている。一つの家族の内いる子どもたちは互いに驚くほど異なっているが、両親は全員に気を配っている。キリスト教会においても同様である。信仰の程度や恵みの賜物の種類は様々であるが、最も小さく、か弱く、頼りない信仰者であっても、全員が主イエスに愛されている。だから、弱点があるからといって信仰者に気落ちさせないように、ことに兄弟や姉妹を軽んじたりみくびったりしないように心がけよう」。

 

ライルはキリスト者について言っているのですが、キリスト者であろうと非キリスト者であろうと、私たち人間が共に一つの土台に立って生きているとすれば、その土台は、イエスがその一人一人を十字架の極みまで愛されたということ、そしてそのイエスを神が甦らせたということではないでしょうか。十字架と復活の主イエスがすべての人を愛し、見守っていることを信じ、教会でもこの世でも異質な他者を受け入れ合い、互いに愛し合う者として私たちが生かされていることを証言していきたいと思います。

 

主がそのような証言者として、私たちをそれぞれの場で立たせてくださいますように!

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスを通して、マルタ、マリア、ラザロの姉妹兄弟を愛されたように、私たち全てを愛しておられます。どうか、そのようなあなたのイエスを通した愛を、私たちが他者と共に生きる土台として、日々を歩むことができますように、お導きください。
  • 残念ながら、この社会では、私たちは他者との競争の中に置かれ、争いと奪い合いの中で互いに傷つけ合っています。どうかそのような現実を、互いの受け入れ合い、愛し合うことによって克服していくことができますように。
  •  
  • ウクライナやガザでの戦争をはじめ、軍事支配や民族紛争が、一刻も早く終結しますように。今日本政府は、武器輸出を可能にし、軍備の増強をはかって、戦争の準備に力を注いでいます。どうかその力を平和外交に向けるように導いてください。
  • 差別や貧困、気候変動や地震などの自然の災害で苦しむ人々に救済の手が添えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   479(喜びは主のうちに)

https://www.youtube.com/watch?v=9wTkGlsA6B0

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

船越通信(607)へのコメントに対する応答

船越通信607に対する以下のようなコメントをいただきました。

 

その按手志願者に踏み絵を踏ませるような質問には違和感をおぼえます。どのような考えを持つ方でも切り捨てないのが合同教会ではないでしょうか。按手後の対話ではなぜいけないのでしょうか。多様な立場を尊重してほしいです。また、この動議はハラスメントのように感じました。補教師に対する優位性を抱く証左に見えます。

 

教区総会での按手礼式執行保留の動議について、この方のような反応があることは予想していました。この方は「どのような考えを持つ方でも切り捨てないのが合同教会ではないでしょうか」と言われます。そのこと自身はその通りだと思います。しかし、ではなぜ、私は聖餐という神学的な問題で免職処分を受け、教団から切り捨てられたのでしょうか。それは、私を戒規免職処分にした教団の方々は、教団を「どのような考えを持つ方でも切り捨てない合同教会」とは、考えていないからです。この方々は、「(教団)信仰告白と教憲教規を遵守」しないと(私も、教団信仰告白と教憲教規を遵守しないわけではないのですが)、一方的に日本基督教団の信徒・教職にふさわしくないので、処分をしてもかまわないと思っているのでしょう。そうでなければ、私が戒規免職処分になることはありませんでした。その私を、神奈川教区は、教団は認めていませんが、一人の教師として処遇してくれています。そして教団総会に、私の戒規免職撤回の議案を出し続けてくれています。それは、神奈川教区が、「どのような考えを持つ方でも切り捨てない合同教会」として日本基督教団を考えているからだと思います。そのことに私は感謝しています。

 

なぜ今回の教団総会で按手礼保留(保留であって、反対ではない)の動議が出たのかと言えば、神奈川教区は、神奈川教区への転任教師や准允・按手志願者を対象にしたオリエンテーションを持っています。このオリエンテーションの要綱は下記の通りです。

 

神奈川教区オリエンテーション要綱

 

1、目的

 日本基督教団はその内に多くの問題をかかえており、神奈川教区は教区として理解のもとに、それらの問題を担おうと努力している。現行の日本基督教団教師検定試験も問題をかかえて実施されており、そのことの故にさまざまな立場の受験拒否を出すことになっている。この検定試験を受験し、准允、按手を受けられる方、また他教区より転任される方にこれらの問題を共に担ってもらうことを目的にこのオリエンテーションを実施する。教区(常置委員会や教区総会)の推薦や承認等をめぐる討論の場に志願者が有意義に参加できるように同委員会はオリエンテーションを準備する。ただし、教区内の多様な意見がこのプログラムに反映するように配慮する。

 

2、対象

 a 他教区からの新任教師

 b 按手・准允の志願者

 c 正・補教師検定試験受験者

 

3 内容

 ① 教団成立の歴史とその問題への理解

 ② 神奈川教区の状況と教区形成基本方針の理解

 ③ 教団問題・教師検定問題と受験拒否の理由への理解

 ④ 教区宣教の現場と問題への理解

 

4 年間実施計画及びその対象

 1月 教団成立の問題(戦責告白、六・九部問題、教師検定問題(c))

 4月 教区の状況・教区形成基本方針(abc)

 7月 現場見学(開拓伝道地・病院・ホーム・工場等) (abc)

 8月 教団問題(万博・東神大)、受験拒否問題(bc)

11月 現場見学(寿地区・川崎・横須賀・差別問題等) (abc)

 

5 確認事項

 1)この要綱に基づき、各神学校・教会に連絡し、対象者への連絡を依頼する。

 2)最低年1回、教区内全教会に往復はがきで対象者の有無を調査し、連絡の徹底に努める。

 3)受験志願者、按手・准允志願者に出願手続き以前にこのオリエンテーションに出席することを要請する。

 4)常置委員会はオリエンテーション委員を選任し、オリエンテーションを実施する。

 5)オリエンテーションの資料集・ガイドブックを作成する。

 

                                  以上

 

この要綱に基づいて、神奈川教区には常置委員会が設置しているオリエンテーション委員会があり、コロナ感染拡大時期である2020年度、2021年度を除いて、年4回オリエンテーションを開催しています。毎年第一回目は必ず神奈川教区形成基本方針(下記参照)についての学びをしています。また毎年一回は神奈川教区が抱えている宣教の現場研修として、在日コリアンの歴史と現在の学び(川崎で)、横浜寿町の寄せ場での研修(教区の寿地区センターで)、横須賀や厚木・座間での自衛隊・米軍基地問題の研修行なっています。オリエンテーションへの参加は、神奈川教区に転任して3年間をめどにしていますので、現場研修も3年間サイクルになっています。他の年2回、3年間で6回のオリエンテーションで、上記要綱4に記されている教団の70年問題と言われる諸問題をテーマに開催しています。ですから、教区への転任教師と准允・按手志願者には3年間オリエンテーションに出席してもらって、日本基督教団が合同教会として多様性の一致をめざしていくことにおいて一つであることを確認してもらい、日本基督教団の地域的共同体としての神奈川教区にあって、立場や考え方は違っても共に歩んで行くことを願って、神奈川教区ではオリエンテーションを設置しているのです。

 

神奈川教区形成基本方針

 

前文

 

日本基督教団神奈川教区は、1965年 東京教区より分離独立し、教区としての歩みを始めた。そして「教区の教会性の強調」「信仰告白の実質化」を方針に掲げ「一つの教会」となるためのさまざまな努力を重ねられてきた。

 しかし1969年以来、万博キリスト教館出展問題、東京神学大学への機動隊導入問題等を契機にして教団成立以来十分に自覚・検討されてこなかった諸問題が一気に噴出する状況となった。すなわち、教区においても諸教会やキリスト者の間に、福音理解や教会観、信仰告白に対する態度や宣教の理解、さらには「教区とは何か」等、重要な問題についての理解に大きな相違があり、それらが具体的な諸問題との関わりで表面化して、多様な立場や主張が対立し合うことになった。そのため、従来の「教区基本方針」では教区総会すら開催できないという状況に立ち至った。

 そこで教区諸機関における、「1970年度基本方針」案および修正案をめぐる精力的な議論を経て、1971年に第20回教区総会が開催され、教区内に相違や対立がある現実を率直に認めると共に、それらの相違や対立を抱えつつも尚、一つの教会であることを求め、真に「一つの教会」を「形成」することを目指すことを形成途上の教会であることを確認した。このようにして採択されたのが、今日の教区形成基本方針の原形である。

 その後、教区においては「教師検定にかかわる問題」「教区の教会人事への介入を巡る問題」等さまざまな問題が起こったが、いずれもこの方針に沿ってそれらと関わるように努力がなされてきた。しかし今日、教会を取り巻く状況も大きく変化し、教区内の教職・信徒の世代交代も進む中で、教区形成基本方針を採択した事情や、提起された問題や自覚を迫られた意識、またここに盛られた願いや精神を直接に知り得る者も少なくなった。そこで、数年前から教区形成基本方針の再検討を求める声が強くなり、今日の状況に即した方針が求められるようになった。

 その再検討に当たり心すべきことは、この教区がさまざまな困難な状況の中で重ねてきた20数年の歩みを踏まえつつ、現在および将来に向かう新しい展開を望むことである。すなわち、新しい状況への適応を急ぐあまり過去の状況、特に今も未解決のまま継続的に問われ続けている諸問題を忘れ去ったり、切り捨てたりしないこと。同時に、過去から引き継いでいる問題が新しい状況の中でどのような展開をうながしているかを探り求めることにより、前進に寄与するものとなることを求めたい。

 このような認識と願いをもって、以下のように教区形成基本方針を定める。

 

本文

 

 我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。

 我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。

 我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。

               

 【1994年2月26日第91回教区総会にて制定】

 

実は、今回神奈川総会で按手礼志願者の一人の方に保留の動議がでたのは、この方は、上記オリエンテーションに3年間一度も出席せずに、一方的な意見を述べましたので、今回は按手礼を保留にして、話し合いをしてから改めて按手礼を受けてもらった方がよいのではないかということです。いたずらのにただ意見が違うだけで、保留の動議を出したわけではありません。私の船越通信にコメントして下さった方は、按手礼受領後に話し合いをしたらと言われていますが、私は神奈川教区に30年近くいますが、この方のような人は按手受領後には,神奈川教区には連合長老会系の教会がある程度の数ありますので、それらの教会が教団内教派活動のような形で独自の会をもっているようですので、そちらには出席しているかもしれませんが、ほとんど教区の交わりには出て来ません。

 

今回の教区総会で按手礼志願者の一人の方に、按手礼保留の動議が出たのは、この方を切り捨てるためではなく、もう少し話し合いをしてから、按手礼を受領してもらった方がよいのではないかということです。私は教団から切り捨てられていますので、切り捨てられた者の痛みはよく分かっているつもりです。私は教団年鑑の教師名簿からも除外されています。切り捨てるということは、そういうことです。

 

教団の中で一緒にやっていきたいので、そのためにはもう少し話し合ってからではどうでしょうか。そういう思いで、保留の動議がでたのだと私は思っています。それゆえ、その動議に私も賛成しました。コメントして下さった方は、この動議が補教師に対する優位性に基づくハラスメントに感じられた、と言われていますが、この動議はそもそも信徒である議員の方から出ていますので、この方の言う、「この動議はハラスメントに感じられた」ということはよく分かりません。

 

私の船越通信607を読んで、この方と同じような思いを持たれた方も、他にもいるかも知れませんので、この方のコメントに対する私の応答を書かせてもらいました。

船越通信(607)

船越通信、№607  2024年3月10日(日)北村慈郎

  • 2月24日(土)の教区総会で按手礼志願者4名の中の一人の方に対し、按手礼保留の動議が出ました。この動議の理由は、所信表明の後の、按手礼を受けて(正)教師になるに当たって、教団から免職処分を受けている一人の教師がいることをどう思うかという質問に対する答えが余りにもひどかったからです。神奈川教区は教区総会決議教団総会議案として私の免職撤回議案を教団総会毎に出し続けています。しかし、この方は、「処分決定までのプロセスについて、教憲教規に則り正規の手続きを経て下されたものであるので、特に問題があるとは思っていない」(常置委員会面接で)と明言されました。この方は私の免職処分に至るプロセスについてどこまで正しく認識されているのか分かりませんが、私には、私が常議員会で聖餐についての発題をして、その後当時の山北宣久議長から教師退任勧告を二度受け、それを無視したら、山北議長は常議員会として私を教師委員会に戒規にかけるように提訴しました。しかし、この常議員会の提訴と教師委員会の受理の間に教団総会があり、その総会で常議員会が戒規の提訴者になることは、教師委員会で戒規処分を受けた教師がそれを不服として上告するのが教団議長(常議員会)なので教憲教規違反に当たるという議案が可決しました。その私を提訴した常議員会のメンバーを含んだ次期総会期の常議員会のメンバーである信徒常議員7名によって私は戒規申立をされたわけです。このこと一つをとっても、私の免職処分決定までのプロセスが教憲教規に則り正規の手続きを経て下されたものとは思えません。この方は、そういう私の戒規免職処分決定までのプロセスについて、どれだけ知っているのでしょうか。それとも誰かから言われたことを鵜呑みにしているのでしょうか。またこの方は、常置委員会の面接で、「(私が免職処分の対象になった)事案について、聖餐に与ることのできる者はバプテスマを受けた者であるということは、福音主義教会の教会的不文律であると思う」と述べました。この発言も、私を戒規免職処分にした人たちの論理であって、問題ある発言だと思います。教団が宣教協力を結び、経済的支援も受けているカナダ合同教会は、洗礼は受けていなくても希望者は聖餐に与ることができます。カナダ合同教会は福音主義的教会の教会的不文律を破っている教会なのでしょうか。そんなことはありません。教区総会での按手礼保留動議は少数で否決されましたが、私もその動議に賛成しました。それは、その方とはもう少し話し合いが必要だと思ったからです。教区総会でも出ていましたが、按手礼執行は教区が教団から委託された案件なので、教区が按手礼式を保留にしたり、執行を拒否することはできないのだという意見もあります。しかし、例え地域共同体である教区であっても、神奈川教区には対話を重んじる教区形成基本方針があるわけですから、教師の養成にもその基本方針を生かしていくことが必要ではないかと、今回のことで思わされました。今回の教区総会では、一人の方から、四国教区他数教区で教区総会に出ましたが、神奈川教区のようにいろいろな意見が出る教区総会は初めてで、それはよいことだと思いました、という主旨の発言があったのが印象的でした。いろいろな発言が出にくい空気の中で開催されている教区総会が多いということでしょうか。「信仰告白と教憲教規遵守」が異端狩りのような機能をしているということでしょうか。これではとても、日本基督教団という教会が、御言葉によって改革され続けるべき教会とはなり得ません。神学は教会の批判的な学です。正統主義を絶対化する神学は神学たり得ません。神の言葉の真理は、自分たちはそれを正しくとらえているとは言えないほど、深く豊かで、私たちには意外性をもった真理です。私たちができるのは、その探求の中で議論しながら、共に神の言葉の真理を求めていくことだけです。
  • 3日(日)は、連絡がうまくいかなかったようで、私は週報に礼拝後役員会と記しましたが、役員会は来週の10日(日)に延期しました。皆さんが散会後、私は1時半過ぎに船越教会から、横浜の三ツ沢市営墓地の中にある紅葉坂教会の墓地に行きました。3月3日は連れ合いの千賀が帰天した日で、4年になり、娘と下の息子と3人でお墓に花を添え、彼女の好きだった讃美歌を歌い、聖書を読んで、黙祷してきました。
  • 4日(月)は、3日のことがあり、娘が休みを取ってくれましたので、御殿場のアウトレットの中にある日帰り温泉に連れて行ってくれて、雄大な富士を観ながら温泉につかり、癒しの時が持てました。

 

  • 5日(火)は、午後2時から東京高等裁判所101号法廷で行われた、神奈川の安保法制違憲訴訟の最終審理の傍聴に行きました。私はこの訴訟が始まったときから原告の一人に加わりましたが、横浜地方裁判所での審理には何度か傍聴していましたが、高裁に移ってからは裁判の傍聴には参加していませんでした。しかし、今回は最終審理ということで、傍聴参加のハガキを出したところ、担当弁護士から電話があり、原告席に座るようにと連絡がありましたので、少し早めに裁判所に行って、原告席に座って、裁判の始まるのを待ちました。すると、同じ原告席に船越教会のNさんご夫妻もいらして、びっくりしました。裁判は、これまでの主張立証を踏まえた最終準備書面をこちらの弁護士が読んで終わりました。裁判長は6月14日に判決を言い渡すことを告げ閉廷しました。その後日比谷図書館コンベンション・大ホールで報告集会があり、私は壇上に並んだ10人近い弁護士一人一人の発言を聞いて、この日午後6時からリモートで常置委員会がありましたので、途中で失礼して鶴巻に帰りました。この日審理が行われた101号法廷は、私の裁判の時の法廷でもありましたので、その時には、この日弁護団の一人でもありました、O弁護士他3人の弁護士と原告の私一人が原告席に座り、被告側は弁護士2人と前I教団議長が座っての裁判でした。傍聴には常に100人以上の方が来て下さいました。裁判後の報告集会もこの日と同じ日比谷図書館コンベンション・大ホールでした。
  • この日の常置委員会は特に協議すべき議題はありませんでしたが、2月教区総会関係の議案審議の際、私は按手礼保留動議に関わる発言をしました。内容は上記に記したものです。7日(木)は国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに参加しました。