なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

  連れ合いの千賀が帰天して、荼毘に付したのは3月6日でした。その日から千賀はお骨になって、今鶴巻のマンションにいます。この2週間毎日のようにお花が届き、千賀のお骨の前にある写真の周りには美しいお花が絶えません。その中には三種類の根つきの欄もありますので、当分は寂しくなることはないでしょう。

 この2週間2日間を除いて、ずっと娘が一緒にいてくれましたので、私も寂しくなることはありませんでした。夫が帰天して1年ほどたつ80歳を過ぎた教会員の方が、去る15日の日曜日礼拝後に「先生寂しくなるよ」とおっしゃいました。時が経つに従って一人で生きることの寂しさが増してくるのかも知れません。それも覚悟しなければならないと思っています。

 これから少しずつこれからの私に与えられていると思われる歩みに向かっていきたいと思っています。

 下記に3月15日の船越通信を掲載します。千賀が帰天した後、千賀のフェイスブックに娘が書いてくれた千賀の最後の様子を記す文章を転載しています。千賀は本当に安らかな最後でした。

 生前千賀に寄せてくれた皆様の温かなご厚情を心から感謝いたします。

 

船越通信、№451    2020年3月15日   北村慈郎

・   3月1日の日曜日礼拝後残れる人でお茶を飲みながら懇談した後、役員会を行いました。この日の役員会では4月の総会準備が中心でした。この日は午後4時半に鶴巻に二番目の息子が来て、二人で鶴巻温泉病院緩和病棟にいる千賀のところに行くことになっていました。私が船越教会から帰って来たのは、午後4時15分頃ですが、ちょうど鶴巻温泉駅からマンションまで歩いていた時に、緩和病棟の看護師から電話があり、千賀の様態が変わってきたという連絡がありました。看護師にはすぐ息子と二人で行くことを告げ、息子に連絡し、病院玄関で待ち合わせしました。緩和病棟のナースステイションで体温を測り、二人とも36度代だったので、千賀のいる病室に行きました。その前後のことは、娘が千賀のフェイスブックに書いた通りなので、それをここに転載します。

【2020年3月3日(火) 桃の節句 雛祭り

今朝、母は鶴巻温泉病院の緩和ケア病棟で亡くなりました。75歳でした。

緩和ケア転院後、3/19のお誕生日までどうかなという感じでしたが、2/25(火)に転院してあっという間でした。転院1週間でしたが、転院当日コロナウィルスの影響で2週間面会できないと聞いてびっくり。しかし、翌日病院から1週間に2日家族のみで30分程度面会可と連絡がきて、母に電話で29(土)に面会行くと伝えたら、27日(木)に母が今日父と私が来ると言っていたと病院から連絡があった言うので、28日(金)は仕事休んで病院に行った。母は目をあまりあけず手で挨拶。ただ痛み止めの湿布を胸に貼ってもらい痛みはない様子。治療はしないので既に昏睡状態に近く、「気分は穏やかなの?」との問いに「穏やか、ここは手厚いよ」と答え、「ガリガリ君が食べたい」というので翌日持ってくる約束をして帰宅。

翌日2/29(土)昼頃父の携帯へ病院から母が「午後の紅茶無糖」と「ガリガリ君」持ってきてと言っていると連絡があり、後で持って行きますと伝え、母にピスタチオ味とソーダ味のガリガリ君を持って行き、最初ピスタチオ味を食べてみると一口で、やっぱり普通のがよいとのこと。その時の食べっぷりは今でも動画に撮っておけば良かったというくらい笑えます。食べ終わって満足したら「あーおいしかった」とはっきり言ってました。この日も「何か話したいことある?」と聞いたら「ない、充分話した」とのこと。

多分ガリガリ君が最後にちゃんと口に入れた飲食物になり、翌日3/1(日)父と下の弟が夕方面会に行く前に病院から容態急変と連絡があり、父は泊まることになりました。

私は月初めは1番仕事が忙しい日ので1日は携帯見ずに仕事しており、帰る時に気付いて、母のことを知り、デスクに戻り明日から休みますとバタバタ仕事上の引き継ぎメール。

3/2(月)のお昼から病院に行き父と交代、上の弟も面会にきて、夜父と交代で父は2泊目です。私も寝不足だったので、このまま長引くと父と交代になるかもと早く寝て、3/3(火)の今朝早めに起きたら父から電話、あと数十分から数時間とのこと。慌てて支度して歩いて数分の病院につき、息が浅くなっている母ですが相変わらず穏やかに寝ているようでした。心拍数も下がってきたというので、腕をさすりながら話していたら少し落ち着いたとのことでしたが、またちょっとしてそろそろかもと言われて看護士さんと話していたら心電図が止まったとのことでした。

私には初めての看取りなので、色々調べて看取りガイドという資料がとても詳しく参考になり、前日介護士をしている弟の話も聞いて覚悟していたのですが、想像以上に穏やかな最期で、死ぬのは怖くないなと思えるほどでした。その後病院でお風呂に入れてくださり、お化粧や身支度して、短期間ですが看護士さん、リハビリスタッフの方や介護の方やら、母と関わられた皆さんが挨拶に来てくだしました。昨日も音楽療法士の女性がいらして、母とは2日くらいしかちゃんと話ができる状態ではなかったのに、そんなに母が色々話していたのかと思うほどの情報量でした。

その後知り合いの横浜の葬儀屋さんが来て、今は横浜で眠っています。

コロナウィルスの影響で、3月6日(金)に家族だけで密葬し、後日横浜でお別れ会を行う予定でいます。

今は人が集まることは避けたいので、親戚と母が病気になるまで理事長をしていたNPOの事務所にだけ連絡しましたが、あっという間に広がり、色々なグループやネットワークも萌の方々と繋がりがあったのだと後で気付きました。

私は夕方自宅に戻り、母がとても親しくしていたお友達数人に連絡して、今のんびりしています。

余談ですが、父と交代で病院に行くとナースステーションで面会者の体調チェックで体温を測らなければなりませんでしたが、その体温を測る時に、歩いて病院に行ったので体が暑くなり、その時の体温が37.4度もあり、面会できないかと思いましたが、反対のわきの下で測ったら通常体温。それも問題だけどねと言われながらも病室に着いたら、婦長さんから話しがあると言われ、帰らされる?と慌てていたら、初めて会うからと挨拶とやたら、私の状況をいろいろ聞くので少し違和感を覚えてテキトーにツラツラ答えていました。

家族のフォローもするのが緩和ケアだから?と思っていたら、昨日になって父が転院当日に面会できないと言われた時に、父なりに嫌な顔をして、その看護婦長さんにそんな会えないと娘がパニックなると言ったかもと言われ、早く言ってよと話してました。であればそれなりの会話をしたのに^^;と。コロナのせいで毎回ナースステイションで体温を測り、面会できるかドキドキしたのと、緩和ケアならではの細かいケアにちょっと驚かされる場面もありましたが、こんなに穏やかな最期を迎えられたことは感謝です。

長くなりましたが、ひと段落し今日のことを記したく…また、ここの(フェイスブック)お友達の皆さんにはご心配や励ましやアドバイスなどいただき、無事看取れたことに感謝です。

 

追伸: ずっと治療してくれていた担当医から転院前に父に癌が見つかったときはかなり進行しており、ここまでかなり頑張ったんですよと言われたそうです。

うちはキリスト教なので母がよく天に宝を積むという言葉を使っていましたが、まさに天に宝を積んだ結果日本的ですが最期にこんな素敵なご褒美がもらえたのかなと思います。】

 

  • この2週間は、千賀の看取りと密葬、その後娘が一緒にいてくれて、皆さんから送っていただいた沢山のお花に囲まれた千賀の写真とお骨のあるマンションでの生活でした。これからはまた以前の日常に戻りますが、以前とは少し違う生き方を私の人生の最後にしたいと密かに思っているところです。