なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマの信徒への手紙による説教(55)

7月24(日)聖霊降臨節第8主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)

③ 讃美歌  7(ほめたたえよ、力強き主を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-007.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編119編129-136節(讃美歌交読文138頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  ローマの信徒への手紙12章14-21節(新約292頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   425(こすずめも、くじらも)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-425.htm

⑨ 説  教  「他者と平和であえ」      北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 先日神奈川教区の基地・自衛隊問題小委員会(基地小)があり、私も委員の一人でしたので出席しました。その時に、今年の平和集会(8月13日[土]13:30~16:00、紅葉坂教会にて開催)の集会宣言の原案を基地小が作るということになっていましたので、委員長のIさんが書いてくださったものに私が少し修正を加えた原案を委員会で検討しました。二三表現の修正があり、それをもって基地小の原案として、平和集会の主催者である社会委員会で検討していただくことになりました。
  • その基地小の今年の平和集会宣言原案の最後には、最初の原案を作ってくれた委員長の強い思いもあって、以前の平和集会宣言の言葉をそのまま採用しました。その言葉を紹介いたします。

 

・わたしたちは,イエスから示される自由と平等と平和を心から願い,小さな者,弱い立場の者と共に生きることを選びとります。

・わたしたちは,民族や性別を越えて,お互いを尊重し合う共生社会を目指します。

・わたしたちは,差別や暴力,戦争を生み出す全てのものを捨て去る世界を希求します。

・わたしたちは,愛と平和に満ちた世界をつくり出すために,必要な力と勇気を祈り願います。

・わたしたちは,平和を模索し,行動し,問題への取り組みと共有とを大切にします。

・わたしたちは,平和の主イエスが共にいて下さることを信じ,わたしたちは真の平和をつくりだすものとして遣わされて行きます。

 

  • これは平和集会参加者の決意表明と言ってもよいと思います。ここで決意表明されている内容は、今日のローマの信徒への手紙(以下ローマ書)12章14~21節で語られている勧告の内容に通じると言えるのではないでしょうか。このローマ書の箇所は、前回も申し上げましたように、私たちキリスト者キリスト者同士の交わりではなく、教会には連なっていないこの世の中の人々との関係において、私たちキリスト者は、イエス・キリストの福音を信じる者としてどのように生きるべきなのかということが書かれているところであります。

 

  • そこでは、すべての人に対する私たちキリスト者の振る舞いとして、このように語られています。

 

  • 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(15節)。
  • これは14節の迫害という差し迫った状況下ではなく、日常生活で実現すべき真の兄弟(姉妹)愛の勧めであります。バルトは、この「共に喜ぶ」ことこそ、神に創られた人間の本来の姿であると言っています。そしてこの「共に喜ぶ」が歴史上端的に現れ、その文化の質を決定するまでになったのは、イスラエルの伝統においてであるよりは、むしろギリシャの伝統においてであったというのです。事実ギリシャ人は「汝ら喜べ」(カレイテ、現代語でヒェレテ)という言葉を古代から現代に至るまで日常の挨拶に使ってきた人たちであると言われています。「喜び」は、キリスト教に固有のことというよりは、むしろ創られた人間すべてに本来的なこと、人間であることの証なのだと言うのです。それでいてわたしたち人間は、喜ぶ他者と共に喜ぶ、悲しむ他者と共に悲しむことができないという倒錯した現実にしばしば陥ってしまいます。ギリシャ人が「汝ら喜べ」と命令形で常にお互いに言い合っていたことは、しばしば喜べないという現実があることを彼らが知っていたからでしょうか。ともあれ、共に喜ぶ(従って共に悲しむ)という創られた者の本質を回復し、兄弟(姉妹)愛を本来の姿で発揮せしめる、つまり人間を真に人間たらしめるものこそイエス・キリストにおいて成った神の愛であると、聖書(パウロ)は私たちに告げているのです。

 

②「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(17-18節)。

  • 「悪に悪で仕返す」という報復の倫理を克服して生きることは、この世にあっては途方もなく困難なことであるということを、パウロはよく知っていたのではないでしょうか。「平和」ということは相手との関係において成り立ちます。ですから、「もし可能なら」という限定を付けざるをえなかったのでしょう。しかしこの「もし可能ならば」という限定は、何もしない言い訳になってはなりません。キリスト者にはそれは許されません。キリスト者とは「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いる(ローマ5:1)者であり、その平和が終わりの日に全世界のものとして到来することを信じる者のことであります。その意味で、その平和の実現可能性をあくまでも望み、確信しています。「もし可能ならば」とは、現実の社会で平和に生きることがきわめて難しいと知りながらも、その可能性をあくまでも信じ、イエス・キリストにおいてすでに先取りされている終わりの日の平和に、わたしたちの現実を少しでも近づけようとする生き方、最後究極のことは神に委ねることによって、かえって最後から一歩手前のことを自分たちの務めとして、「慎み」=「思慮深さ」(12:3)をもって冷静沈着に引き受けていく、そのような生き方をいっているのではないでしょうか。

 

③「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)。

 

  • この世の現実は、善をもって悪に勝つよりも、悪をもって善に勝つ、あるいはより大きな悪をもって悪に勝つことが多いように思われます。映画監督の黒沢明に「悪い奴ほどよく眠る」という映画があります。1960年に作れた映画です。1960年は安保闘争の時で、国会突入の時に樺美智子さんが亡くなった事件が起きた時です。この年にこの映画が作られたことには、「悪い奴ほどよく眠る」という何がしかの時代背景の影響があったのではないかと思われます。それは今の時代も変わらないと言えるかも知れません。あれだけの東京電力福島第一原発事故を起こしておきながら、被害を受けた地域や人々が苦しんでいて、東京電力はつぶれもせず、国に守られて存続しているのですから。今の日本社会はとても善をもって悪に勝つ世界とは言えません。正に今も「悪い奴ほどよく眠る」世の中に違いありません。ですから、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という勧告は、非現実的で楽観的過ぎる。現実は悪が善に勝っているではなかと言われるかもしれません。

 

  • しかし、パウロは(そして私たちも)、この世の現実を直視しつつも、イエス・キリストにおける現実から生きていこうとしているのではないでしょうか。ですから、イエス・キリストにおいて現実となった神の愛のゆえに、パウロは、この悪をもって悪に報いるという報復主義ではなく、悪に対する善の勝利が、終わりの日のこととしてはもちろんのこと、わたしたちの日常生活においてもその都度出来事となることを信じ、期待し、それゆえに勧めることができたのではなでしょうか。しかしここでは倫理的理想主義が問題となっているのではあません。あくまでもこの勧告は、神の恵みの具体化としてのカリスマ(賜物)を与えられた者の召命、その恩恵への応答としての日常生活における奉仕、すなわち終末論的行為と捉えられなければなりません(ケーゼマン)。イエスの十字架は、この世の悪である権力者による敗北ではなく、この世の悪に対する神の愛の勝利なのですから。
  • パウロは、以上のようなすべての人に対する私たちキリスト者の生き方だけでなく、迫害者や敵対者についても、彼ら・彼女らとの関りをどのように生きるかについての勧めも語っています。

 

①「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)。

 

  • まず、「憎む」ということと、「呪う」とは同じではないことに留意したいと思います。「呪う」ということは被造物の究極の救済を否定することであって、これは神の主権に属することであります(関根正雄)。わたしたちはどんなことがあっても、誰であっても、その究極の救いを否定することだけは許されません。たとえ人間的には憎むということがあっても、呪ってはならないのです。むしろ、その反対としての祝福をあえて祈らねばならなりません。なぜなら、わたしたちが呪われて当然であったときに、わたしたちのために呪いとなり給うた(ガレテヤ3:13)キリストのゆえに祝福され、わたしたちが全く値しない恵みを与えられているからです。そのことによって、つまり十字架のキリストに合わされることによってだけ、祈りに際して敵を祝福する(恵みを願う)ことがその都度わたしたちの出来事となるのです。そのときわたしたちは、いかなる人とも、敵といえども、同じ被造物たる人間として連帯できるようになるのではないでしょうか(川島)。

 

②「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。(19-20節)。

 

  • もし終わりの日に本当の平和が実現する、あるいは本当の正義が実現するという可能性を信じることができなければ、しかも単なる絶望に、あるいは敗北主義に身を委ねるというのでないとすれば、人は自ら悪には悪を返すという報復という手段に訴えるしかないでしょう。正義はあくまでも貫徹されなければなりません。不正が曖昧なままで放置されていてはならないのです。パウロはこれも人間性の声であることをよく知っています。だとすれば報復をしないということが人間にはいかに困難なことかをもよく承知しているのです。だからパウロは報復そのものを頭から否定することはしません。キリスト者は復讐を神の裁きに任せることができるのでする。終わりの日の神の裁きは、神による平和の実現の、救済の成就の必然的な一部であります。わたしたち人類は皆その厳しい審判の対象者です。しかしわたしたちはわたしたち人類が例外なく受けるべき罪の処罰をイエス・キリストがわたしたちに代わって担い給うたと教えられています。そのことを信じることを許されているのがキリスト者なのです。キリスト者は、自分がイエス・キリストのゆえに免れた報復を、他の人に願うこと、まして自ら神の代行者であるかのように「最後の審判を演じはしない」(ケーゼマン)のです。キリスト者は自ら復讐しないで一切を神に任せよと勧める裏付けとして、パウロは19節後半で申命記32:35を引用します。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と。
  • 究極のことは神に委ねることによって、イエス・キリストが歩まれた愛と平和と和解の道を、私たちも一歩一歩歩んでいけますように。主が私たちをそのイエスの歩んだ道に導いてくださいますように!

 

  • 祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちには、不当な仕打ちを受けた時には、報復しないでは気が済まないところがあります。悪を許せないからです。おそらく先日起きた安倍元首相を銃撃した犯人もそのような報復の思いに囚われてしまっていたのではないかと思われます。悪は罪から生まれます。私たちすべては、自らの力だけでは、その罪の支配から自由になれません。そのために自分の力だけで生きている私たちは、報復というわなからなかなか抜け出すことができません。
  • 神さま、あなたは御子イエスを通して、私たちを罪から解放し、報復のわなから自由にしてくださったことを覚えて、心から感謝いたします。このイエスによってもたらされた「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」、互いに愛し合う他者との平和を、私たちが生きていくことができますように、お導きください。
  • 新型コロナウイルス感染がまた急拡大しています。小さな子供たちや若い人々に広がっていますが、私たちの生活がウズコロナに適用できるように、早く整えることができますように。このために今困難の中にある人びとを支えてください。
  • ウクライナへのロシアによる軍事侵攻が一刻も早く止まりますように。世界の為政者たちが経済制裁や軍事支援よりも話し合いによる問題解決に力を注ぐことができますように。また、この戦争によって被害を受けている人々に支援の手が行き届きますように。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌   486(飢えている人と)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-486.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。

(この日の説教は、川島重成さんからの恩恵が大です)