なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「主は与え、主は奪う」(11月6日(日)永眠者記念礼拝説教)

11月6(日)降誕節前第7主日(永眠者記念)礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」

詩編100:1-2)

③ 讃美歌   516(主の招く声が)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-516.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編105編1-11節(讃美歌交読文115頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨブ記1章21節(旧約776頁)

ヘブライ人への手紙12章1-3節(新約416頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   382(力に満ちたる)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-382.htm

⑨ 説  教   「主は与え、主は奪う」           北村慈郎牧師

  祈  祷

           

私は、連れ合いが帰天して2年8か月になります。死んで葬られましたので、連れ合いはもういません。生きていた時に夫婦として私と一緒にいたようには、確かに彼女は存在しません。でも、私にとって連れ合いは今も生きているように思われます。連れ合いの幻影を見るわけではありません。勿論彼女の存在は生前のように、体において存在し、彼女と語り合えるわけではありません。けれども、どこかに生きているように思えるのです。ですから、彼女が帰天したことは、私にはつらく寂しいことではありますが、今もどこかに生きているように思える彼女に、自分がこの地上に命与えられて、生きている限り、恥ずかしくないように生きていかなければならないと思っているのです。おそらくお連れ合いを先に天上に送った方は、私と同じ思いなのではないかと思います。

 

ヨブ記は、ある意味で信仰のドラマで、フィクションかも知れませんが、神の義と人間の苦難について語っています。その主人公のヨブという人物は、この世的には大変恵まれた生活をしていました。ある時「主の前に」と言われていますから、天上での神の前に、神の使いたちが集まり、サタンも来たと言うのです(ヨブ記1:6)。神はサタンに向かって、「お前はどこから来たのか」と言ったというのです。すると、サタンは答えて、「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と言います(1:7)。更に神はサタンに、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどのものはいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と申します(1:8)。すると、サタンは神に挑戦するかのように、このように申します。「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業すべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はこの地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(1:9-11)と。神はサタンに、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」と言われ、ヨブをサタンの自由にさせます(1:12)。すると、サタンは、ヨブの財産も子供たちの命もすべて奪い取らせます。それを知った、「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれふして言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:20,21)と。そしてヨブ記の著者は、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」と結んでいるのであります。

 

「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。この言葉は、2章以下で物語られているあらゆる苦難を受けたヨブの結論になる答えです。私たちは、自分の命を自分で生み出したのではありません。私たちは命を贈り物として受けて、この世に命ある者として生まれて来たのです。ですから、私たちの命は私たちの意志や自由を越えています。「命を抱えて生きる」という言い方をする場合があります。それは、「命」は自分の自由にできる財産のようなものではなく、それを「抱えて」、むしろ私たちが生きるものだからです。ですから、重い病気になっても、どんなに苦しいことに出会っても、人間である私たちは「命を抱えて」生きていかなければならないのです。

 

「わたしは裸で母の胎を出た」というのは、母の胎から生まれ出た人間は、文字通り裸で、何一つ持たないで、無一物でこの世に生まれたということを意味します。そして、「裸でかしこに帰ろう」とは、裸のままで、つまり誕生の時と同じように、何一つ持たないで、自分が出来て来た所である神の下に帰ろうと言うのです。もしこのヨブ記の言葉が、ヨブという一人の人物によって語られたとするならば、ヨブという人物は、そういう自覚をもっていたということを意味します。自分という者をこれほどまでに透き通った眼差しで見られるということは驚きであります。多くの人は自分の得た富や地位やよき行いによって自分という人間を美しく見せたり、飾ったりしておきたいものです。そして裸の自分を隠してみせたがらないのです。けれども、ヨブのこの言葉は違います。どんなに粗末であっても、神は裸のままの自分を受け入れてくださることを言い表しています。何と素直なことでしょうか。

このヨブ記は、ヨブをめぐってサタンが神に挑戦するかたちをとっています。ヨブは「いたずらにあなたを信じましょうか。あなたから幸福をいただいているから、あなたを信じるのであって、そういうヨブを恵むあなたの賜物を失ったら、何であなたを信じましょうか」という問いです。つまり、ヨブは幸福をあなたからもらっているので、あなたを信じているのだ。もしそういう幸福がなくなってしまえば、あなたを信じることもないでしょう、というのです。多くの財産、子どもたち、ヨブ自身の健康、そういうものが与えられているから、ヨブは神を信じるのだと。

 

今読んだヨブの言葉は、そのサタンの挑戦を受けて、すべての幸福を失ったヨブが、それでも神は自分を見捨てることはないという信仰を言い表している言葉です。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」。だからこそ、神の讃美が最後にヨブの口をついて出たのであります。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」。

 

人の持つ全てのものは神が貸し与えてくださったものであるというのです。すべてが取り去られても、人の命も持ち物も全て神によって与えられたもので、自分のものでないことを知る時に、神はそれをいつ返せと要求されても、全く神の自由であるというのです。ヨブの言葉は、この神の自由に対してアーメン、まことにそうです、と言っているのであります。

 

「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」。その意味で、私たちは、この講壇の前にある既に召された写真の方々についても、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほめたたえられよ」と、言わざるを得ないのではないでしょうか。そして、私たちも、いずれ裸で神のもとに帰る時を迎えることを忘れないで、なおそれぞれに与えられている命を大切に、神と隣人の前に生きていきたいと願います。

 

今日は、もう一つ、ヘブライ人の手紙12章1-3節から、この既に帰天されて神のもとに帰っておられる方々が、その他たくさんの方々と共に、この地上の生を続けさせていただいている私たちの「証人」になっていることも、憶えたいと思います。

 

ヘブライ人への手紙の著者は、11章1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語り、続けて「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(11:2)と言って、旧約聖書の信仰者の代表的な人物を列挙しています。そのような、既にこの世を去って、神のもとに帰っている信仰の先達者の中には、ここに写真のある方々も加えられているに違いありません。そして、その方々も、ヘブライ人への手紙の著者が言うように、今、まだ、この世の生を生き続けている私たちを見守る、おびただしい、天にいる証人の仲間なのではないでしょうか。

 

ヘブライ人への手紙の著者は、12章1節―2節前半でこのように語っています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」と。

 

地上に今も生きている私たちは、未だ「すべての重荷や絡みつく罪」から解放されてはいません。生きている以上、背負わなければならない重荷は、誰にでもあります。また、神を蔑(ないがし)ろにして、自分を中心に据えて生きる自己中心性という罪からも、私たちは自由ではありません。けれども、赦された罪人として、私たち信仰者には、目標をめざして走りぬく、それぞれ固有の道のりが与えられているのではないでしょうか。へブル人への手紙の著者は、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と言って、私たちそれぞれには自分に定められた固有な道があることを示唆しているのであります。

 

そして、何よりも私たちの前にはイエスが歩いている、と言うのです。その「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と。そして、2節後半から3節では、「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」と、この手紙の著者は言うのです。

 

人生の重荷と絡みつく罪によって、信仰によって生きる「気力を失い疲れ果ててしまう」危険性を、私たちは常に背負っているのではないでしょうか。それは、私たち一人ひとりにも、自分の十字架が与えられているということではないでしょうか。この世で「命を抱えながら」生きるということは、イエスの十字架の一端を、自分の十字架として私たち自身も担って生きることだからです。だからこそ、その闘いに打ち勝ったイエスのことを、よく考えなければならないのです。イエスの背を見て歩き、イエスのことをよく考えながら生きていくときに、私たちは自分に定められている競争を忍耐強く走りぬくことができるのです。私たちがそのように生き抜くことができるように、ここにある写真の方々と共に多くの証人が天にあって私たちを見守っていると、ヘブライ人への手紙の著者は言うのです。そういう意味で、既に帰天された一人一人と私たちが今もそのように繋がっているということは、うれしいことです。そして、私たちも信仰者としてこの地上における競争を走りぬき、何れ死んで、天に帰ったときに、この方々と共にこの地上の人生をよく生き得たことを喜び合うことができれば、それに優る幸いはありません。

 

「主が与え、主が奪う」。神によって貸与された私たち一人一人の人生を信仰を持って、最後までそのように生きることができますように! 神の導きを祈りたいと思います。

 

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は、教会の暦では「聖徒の日」で、「永眠者記念」の礼拝に、私たちは与かっています。私たちの教会では、この講壇の前に写真のある方々が、あなたに命与えられて、この世の人生を歩み、そして召されてあなたのもとに帰って行かれました。この方々が、今、天上にあってあなたもとで平安のうちにあることを信じます。
  • 神さま、あなたに召されて天上にある方々は、今なお、あなたから与えられた命を抱えながら生きている私たちにとっては、私たちを天ににあって見守る証人の一人一人であります。あなたとその証人を覚えて、どうか私たちがイエスの十字架を背負って生きる、この世の歩みを最後まで全うできますように、お導きください。そして、何れ私たちもこの世の務めを終えて、あなたの所に帰っていったときに、天にある証人の方々と再会し、共にあなたとイエスを称えることができますように、お導きください。
  • 神さま、私たちの生きている現代の世界は、さまざまな重荷とからみつく罪とによって、私たちが道を外して生きているために、同じ人間や自然の命を奪ってしまっています。どうか、私たちがすべての命を大切にして、信頼と連帯において、共に生きていくことができますように、私たちをお導きください。
  • 私たちが造り出しているこの現代の世界において、さまざまな苦しみの中にある人びとを助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     讃 美 歌  385(花彩る春を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-385.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                       

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。