なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(108、復刻版)

 今日は私の裁判の日です。「黙想と祈りの夕べ通信(108、復刻版)」を掲載します。          

            黙想と祈りの夕べ通信(108、復刻版)
           (通信 108[-3]2001・10・21発行)

 2年前の夏にHさんの弟さんであるFさんが40年にわたる闘病生活の末に召されました。81歳でした。召されてからFさんの『ヨブ記私訳』(未完)が本にされ、私もそれをいただきました。その「はしがき」の中は、ご自分の境涯についてこのように記してあります。「発病当時はまだ若く東急沿線の住宅地の小高い台地に100坪ほどの日当たりの良い庭のある家を新築して、二年目、妻と幼稚園に通う息子が一人いて、私大の助教授をしていた。日曜や休みには広い庭の手入れが日課で、バラや菊、ひなげし、デイジー、コスモスなど四季それぞれの草花が庭いっぱいに咲いていた。柿や栗などの苗木も根づいていた。とりわけ仕事には希望と野心を自分なりにもっていた。これらすべてを病臥の間に失った」と。その病臥の中でFさんはヨブ記の私訳に傾注されて、1章から10章までを遺して逝かれました。Fさんが出席しておられた教会の友人Kさんは、「病床でFさんと互いに祈り合ったとき、しゃべることのできなくなった口からいつも漏れてくるのは、主への感謝と神の栄光への賛美だけでした。まさしくヨブ記1章21節の祈りそのものでした」と記しています。ちなみにヨブ記1章21節のFさんの訳では、以下の通りです。

 「われ胎を裸にて出づ。
  またかしこへ裸にて帰らむ。
  主与え、主、取り給える。
  主のみ名はほむべきかな。」

 感謝と賛美を基調にした信仰者の日常を生き得たらと願わずにはおれません。

 以上の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。

 先週の月曜、火曜を教会女性会議に参加した。テーマは「脱家族、自分らしく生きることによって教会が変わっていく」。今日も婦人会でIさんが読んだ本も同じ内容のもの(自分を愛して生きる)だった。自分らしく生きる人が、他の人のことも理解できるのではないかトイウメッセージが裏にある。女性会議では、家族のことで苦しんでいる人が多かった。中には家族はよいという考えを持ち、何故脱家族なのかと疑問を呈する人もいた。私自身は両親とは縁が薄く、家族の中でというよりも、いろいろな人に支えられて育ってきたので、これでよいのかとも思うこともあったが、家族という枠に囚われないで生きてきた。ある女性は、結婚したがスムーズにいかず、今は女性と暮らしていると言う。ある男性の方は、結婚して子供も与えられたが、今は女として生きていると言う。私は同性愛者だと堂々と語る方もいた。随分時代や社会が変わるものだと思った。今まで男らしく、女らしくという型にはめられてきたところから、何かマッチしないという違和感をもつ人が多かったことからすると、今は随分そういう枠から解放されて生きられるようになっている。しかし、教会は変わらない。愛の家族、神の家族という教会のイメージが見直される時期にきているのではないか。紅葉坂教会も私にとってはある意味でいごごちの良い所だが、もし誰かが逆にいごこちが悪いと感じているとすれば、そのことを言葉に出し合って、変えられるところを変えていきたいと思う。婦人会、信和会・壮年会という区分は役割分担化しているかも知れない。一人一人自由に生きているだろうか。いごこちが悪い人がいれば、気づいていきたい。婦人会への問いがFさんから出されたが、ひとりひとり自由に、自分を愛して生きて行かれるような互いの交わりを持ちたいと思う。

        「神の名誉を妨げ」(『ルターによる日々のみことば』より)

 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている」(ヨハネ福音書8:48-49)。

 ここでキリストは、何をなさったのでしょうか。主はその生涯をはずかしめのうちに忍び、黙ってそれに耐えられました。しかし、主はその教えを弁護されたのです。なぜなら、教えはわたしたちのものではなく、神のものであるからです。そして神はけがすことのできないおかただからです。そこではもはや忍耐することはやみ、わたしの持っているすべてをかけてそのために戦い、彼らがわたしを攻撃するすべてを耐え忍びます。それは神のみことばの栄光が、汚されないためです。たとえどんなに小さいことであっても、わたしはそのために死にます。しかしもし神のことばが滅びたり、沈黙したりしたままにまかせるなら、わたしは神と全世界に害を及ぼしていることになります。

 ですから、わたしたちは、彼らがわたしたちのいのちをおびやかす時に、それに耐え、憎しみに対するに愛をもってし、悪に対するに善をもってするのです。

 しかし、彼らが福音を攻撃する時には、神の名誉を攻撃しているのです。その場合、愛と忍耐はやみ、もはやわたしたちは沈黙していません。公然と声をあげて叫ぶのです。「わたしはわたしの父をうやまっている。それゆえ、あなたはわたしをうやまわない。しかしわたしはあなたがわたしをうやまわないようにと願わない。なぜならわたしも自分自身のほまれを求めないからである。父は父のほまれのみを求めず、わたしのほまれも求めていらっしゃる。わたしが父のほまれを求めているからである。『わたしをうやまう者たちをわたしもうやまう』とおっしゃっているとおりである」

 これこそわたしたちの慰めであり、たとえ全世界がわたしたちの上に恥と侮辱を加えても、喜んでおれる源です。  (1525年の説教から)