なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(8)「しるし・結婚」ヨハネ2:1-11

2月26(日)受難節第1主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                          (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃美歌   206(七日の旅路)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-206.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編66編1-9節(讃美歌交読文69頁)

         (当該箇所を黙読する)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書2章1-11節(新約165頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌   531(主イエスこそわが望み)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-531.htm

⑨ 説  教  「しるし・結婚」           北村慈郎牧師

  祈  祷

 

今日のヨハネ福音書の箇所は「カナの婚礼」の記事です。1,2節に「そして三日目に、ガリラヤのカナで婚宴があった。そしてイエスの母がそこにいた。イエスも、彼の弟子たちもまた、その婚宴に招かれた」(田川訳)と記されている通りです。

 

当時のこの地方での婚礼というものが、どういうものであったかについて、ウイリアムバークレーは、次のように書いています。「パレスチナにおいては、婚宴の催しは一日以上つづいた。婚礼の儀式そのものが、夕方遅く行なわれた。式が終わると、若い二人は自分たちの新居に案内された。そのときはすでに暗くなっており、頭上には天蓋をさしながら村の道を案内されて行くのであった。(中略)彼らは家にとどまって、一週間、その家庭を解放した。二人は冠をつけ、婚礼の衣装を着ていた。彼らは王と王妃のようにふるまった。彼らは実際に王と王妃のように呼ばれ、彼らのいうことはなんでもきかれた。貧困と重労働の連続である人生において、祝いと喜びのこの一週間こそ、人生における最高の機会の一つであった」(バークレーヨハネ福音書』上、柳生訳)。――パレスチナの村での婚礼とは、そういうものでした。バークレーも言っているように、当時の庶民の貧しく厳しい生活の中で、この婚礼の日々は、どんなに光り輝くような時であったことでしょうか。

 

私たちは、イエスが、そのような喜びの席に、喜ぶ人びとと共におられたということに、先ず注意したいと思います。言うまでもなく、彼の生涯は、人間のさまざまな苦しみや悲しみと共に歩む生涯でした。そのことを私たちは、福音書の記事によって知っています。そのことは、今日においても変わりはありません。しかし、彼が単にそういう方であるだけでなく、私たちの喜びの時にも共にいます方であることを、このカナの婚礼の記事は、私たちに告げているように思います。

 

エスは、人びとのそのような小さな喜びを、決して無視したり軽視したりされません。そのような小さな喜びの席にも彼は共にいて、彼らと喜びを共にされます。彼は、マタイ福音書の最後で(28:20)、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られますが、その言葉の通りに彼は、世の終わりまで、いつも私たちと共におられる。悲しみの時だけでなく喜びの時にも、私たちと共におられると、そのように言うことができます。このことは、パウロキリスト者について「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」と言ったことに通じます。キリスト者が「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」者であるのは、何よりもイエスご自身がそのような方であったからなのです。

 

今日のカナの婚礼の記事から、まずそのようなことを学ぶことができると思います。

 

次の3節を読みますと、「そして葡萄酒がなくなり、イエスの母が彼に対して言う、『葡萄酒がありませんよ』」(田川訳)。――どうしてぶどう酒がなくなったのか。それは書いてありません。招かれた客が、宴会の世話役の予想以上にぶどう酒を沢山飲んだからからも知れません。いずれにしろ、婚宴の途中でぶどう酒がなくなるということは、この婚礼という喜びの席でのハプニングでありますが、その喜びをしらけさせかねない、一つの困った出来事です。ぶどう酒がなくなったことに気づいたマリアはイエスに、「葡萄酒がありませんよ」(田川訳)と言います(3節)。マリアがイエスにそのように言ったのは、それがどんなに取るに足りぬと思われる困惑であっても、イエスは決してそれを無視したり軽蔑したりしないというイエスに対する信頼があったからではないでしょうか。しかしマリアは、そういう彼女の訴えに対して、イエスから厳しい言葉を聞かなければなりませんでした。すなわち、4節に、「彼女にイエスは言う、『女よ(新共同訳は「婦人よ」)、私の時はまだ来ていない』」(田川訳)とあります。「女よ」にしろ「婦人よ」にしろ、自分の母親に対してそのような呼びかけをするのは、自分とマリアとの関係が、息子と母親の関係を越えたものであることを、この呼びかけによって、イエスが示していることを意味していると思われます。そのことはさらに、次の「私とあなたの間にどういう関係がある」と言う言葉で、一層はっきりします。この言葉で、イエスが言おうとしていることは、母マリアであっても、彼の意思を左右することはできないということです。彼の意思は、天にいます父なる神の意志によってでなければ、左右されないということです。母マリアであっても、今彼が歩もうとしている道を変えることはできません。この道に、他の者が介入して来るということは、許されません。

 

そしてさらに、イエスは、「私の時はまだ来ていない」と、言われます。ヨハネ福音書で、イエスが「わたしの時」と言われる場合、また他の人がイエスについて、「イエスの時」と言う場合(例えば7:6、7:30、8:20等)それは、神によって定められた彼の死の時、すなわち十字架の時を指します。あるいは、その死によって与えられる栄光の時を指します。そのような時はまだ来ていないーー自身が十字架につくべき時は、まだ来てないと、彼は言われるのです。その時のためにこそ、彼は地上に来られました。その時のためにこそ、彼は今その公の生涯を始められました。彼の目は、今その時に向けて注がれています。そして、やがてその時が来たときに、そこで起こるのは、何でしょうか。それは、人間の完全な解放――完全な救いです。それは、今暗黒の中に生きている人間のために、新しい太陽が差し昇る時です。そのような時に向かって、彼は今歩き始めておられる。そのような時に対して、彼の目は今注がれている。――それに対して、この婚礼の席で、母マリアが彼に向かって持ち出した問題は、どのような問題でしょうか。それは、婚礼の席でぶどう酒が足りなくなったということです。そして、マリアが願っているのは、その足りなくなったぶどう酒が再び満たされて、この席にもう一度喜びが帰って来るということです。

 

それは、今イエスがその使命としておられることに比べて、何という小さな願でしょうか、それは、イエスがやがて差し昇らせようとしておられる太陽の光に比べれば、ほんの小さな蠟燭の光のようなものに過ぎません。イエスは、そのことを、母マリアに告げなければなりません。彼は、この自分がどのような使命を与えられて今ここにいるのかを、示さねばなりません。それゆえに、彼はマリアに対して、「私とあなたの間にどういう関係がある、女よ、私の時はまだ来ていない」(田川訳)と、言わざるを得なかったのです。

                       

このイエスの言葉は、人間的に言えば、確かに「すげない」あるいは「冷たい」と言わざるを得ない言葉です。しかしこの言葉に対して、マリアは、どのように反応を示すでしょうか。どのような態度を取るでしょか。5節を読みますと、「彼の母が仕える人たちに言う、『もしもこの人があなた方に何か言ったら、それをしてやって下さい』」(田川訳)。――すなわちマリアは、イエスの「すげない」、「冷たい」とも言える答えを聞いても、少しもひるんだり失望したりしないのです。彼女は、イエスの言葉を、自分の訴えに対する拒絶としては聞きません。むしろ、イエスの言葉の中に含まれている約束を、聞き取ります。「彼の時」が来たときに、(すなわち彼の十字架での死において)新しい太陽が差し昇ることを約束されるイエスはーーそのような大きな使命について語られるイエスは、自分が彼の前に持ち出した小さな願をも、決して無視したりはされないということを、確信するのです。それゆえに彼女は、そのことが起こるための準備を、仕える人たちに命じます。「もしもこの人があなた方に何か言ったら、それをしてやって下さい」。

 

これは、何というしぶとい、しかしまた素直な信頼でしょうか。そして彼女のそのようなしぶとく素直な信頼の通りに、奇跡がここで起こり、無くなったぶどう酒が再び満たされ、婚礼の席に喜びがまた帰って来たということが、6節以下に記されています。すなわち、新しい太陽の光が輝くために地上に来られたイエスが、小さな蝋燭の灯の光のためにも配慮し、貧しい家庭の小さな喜びのためにも配慮し給うのです。

 

6-8節を読みますと、「そこには、ユダヤ人の清め(の習慣)に従って、石の水瓶が六つ置いてあった。二ないし三メトレーテースの容量のものである。彼らにイエスが言う、『瓶を水で満たしなさい』。そして彼らは上まで満たした。そして彼らに言う、『では、汲んで、宴会の長のところに持って行きなさい』。彼らは持って行った」(田川訳)。――6節の「石の水瓶」というのは、「ユダヤ人の清め(の習慣)に従って」とあるように、きよめのための水がめです。ユダヤ人には、家に入る時に、ほこりで汚れた足を洗うという習慣がありました。また、食事の前にも、食事の途中にも、手をきよめる習慣がありました。そいう手足のきよめのために、どの家にも、水瓶が用意されていたわけです。それが二ないし三メトレーテース(一メトレーテースはおよそ30ないし40リットル)入りの水瓶というのですから、随分大きな水瓶に、違いありません。しかもそれが、六つもあったと言います。イエスは、その水瓶を、それぞれいっぱいにするように命じられます。そして、「では、汲んで、宴会の長のところに持って行きなさい」と言われます。それで、僕たちは、その水を汲んで、宴会の長の所に持って行きます。その人は、すべてのことを取り仕切っていますから、恐らく会場を出たり入ったりしていて、イエスのなさったことも知らず、イエスの命令も知らなかったのでしょう。ですから、9-10節には、次のように記されています。「宴会の長が葡萄酒になった水を味わってみたのだが、それがどこから来たのか、知らなかった。水を汲んだ手伝いの人たちは知っていた。宴会の長が花婿を呼び、彼に言う、『人は誰でもまず良い葡萄酒を出し、酔った頃に劣ったものを出すのに、あなたは良い葡萄酒を今まで取っておいたのですね』」(田川訳)。――この10節で宴会の長が花婿に言っている言葉は、もちろん世間の常識を言っているに過ぎなません。つまり、あなた達は、世間の仕来りに反して、素晴らしいぶどう酒を、宴会の終わる頃に出していると、そのように言って、驚いているのです。しかし、この宴会の長が何気なく言ったこの言葉が、はからずも、ここで起こったイエスの奇跡の素晴らしさを、語る言葉となっているのです。六つの大きな石がめの縁まで一杯に湛えられた芳醇なぶどう酒―これほど豊かで満ち足りたものはありません。宴会の長は、そのようなものとして、ここで起こったイエスの奇跡を讃美しているのです。

 

最後の11節に、「イエスはこのはじめての徴をガリラヤのカナでなし、」みずからの栄光を顕わした。そして彼の弟子たちは彼を信じた」(田川訳)とあります。しかし、イエスがこの奇跡を通じて現された栄光とは、何でしょうか。この奇跡において起こったことは、イエスが水をぶどう酒に変え給うたということです。その事自身は、一見小さな出来事です。手品師が舞台でやるような出来事だと、言えないこともありません。しかし、ルターが言っているように、ここで起こっていることは、被造物の変化という出来事です。水という被造物がぶどう酒に変えられるという出来事です。そして、この被造物の変化という奇跡は、やがて「彼の時」が来てーーすなわちイエスが十字架につけられる時が来て、そこで起こるであろうことを、指し示しています。すなわち、すべての造られたものが逃れ得ない、罪と死の呪いが突破されて、すべての被造物が新しい生命に招き入れられるという、全被造物の変化を、この出来事は指し示しています。そのような奇跡が、イエスの生涯の最初の奇跡として起こったということは、意味深いことだと、言わねばなりません。

 

11節の最後に、「そして彼の弟子たちは彼を信じた」と記されています。弟子たちは、水がぶどう酒に変えられたという、そのような奇跡に驚き、そのことを信じたのではありません。彼らは、ここで起こったこの出来事を通して、ここにおられるこのイエスを、自分たちを罪と死の支配から解放し新しい生命に入れて下さる方として、信じたのです。罪と死に勝ち給う主を信じ、そこに示されている主の栄光を信じたのです。

                      (以上、ほぼ井上良雄さんによる)

そういうイエスが日常の小さな喜びや悲しみの中においても、私たちと共にいて下さることを信じて、日々を歩んでいきたいと思います。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も会堂での礼拝をおこなうことができ、また私たちがこの礼拝に連なることができ、ありがとうございました。
  • 神さま、ウクライナへのロシアによる軍事侵攻が始まって、24日で一年が経ちました。世界の国々は、この軍事力による他国の侵略を防ぐことができないばかりか、ウクライナに武器を供与して戦争を長引かせています。このことによって喜ぶのは軍事産業だけではないでしょうか。そのために武器をとる軍人も一般市民も、ウクライナだけでなくロシアの人たちもどれだけ苦しんでいるかを、どうか一刻も早くプーチンにも、諸国の為政者にも気づかせてくださり、戦争が終わるように導いてください。私たちも軍拡を進める日本政府にNO!を突き付けて、その動きを止めることができるようにしてください。神さま、世界が平和になりますように、あなたの力を私たちに貸してください。
  • 今日のカナの婚礼でのイエスのように、私たちの日常の小さな喜びや悲しみを大切にして生きていくことができますように。
  • 様々な苦しみの中にある方々を癒し、支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    290(おどり出る姿で)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-290.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                                        

讃美歌21 28(み栄えあれや)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。