なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(34)「命のパンを食べる」ヨハネ6:51-59

10月1(日)聖霊降臨節第18主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌   2(聖なるみ神は)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-002.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編73編21-28節(讃美歌交読文80頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書6章51-59節(新約176頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    529(主よ、わが身を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-529.htm

⑨ 説  教    「命のパンを食べる」        北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書のイエスは歴史的な人物としてのイエスではなく、ロゴス・キリスト=救い主であるイエスです。そういうイエスの言葉であることを前提にして、この説教で、「イエスは…」という時のイエスの言葉をお聞きください。

 

命って何なのでしょうか?先ほど読んでいただいたヨハネ福音書6章51節を田川訳で読んでみます。

 

51節:

「私は天から下って来た生きているパンである。このパンを食べる者があれば、永遠に生きるであろう。そして私が与えるそのパンは、世の生命のための私の肉である」(田川訳)。

 

旧約の民イスラエルは、出エジプト後の荒野で神からマナ(パン)をいただきましたが、それにもかかわらず、神から離れ去り、不従順であったので、命から外れて死んでしまいました。このマナとは違って、イエスの与える命(パン)は、それはイエス御自身なのですが、それを食べる者を死から永遠に解放すると言うのです。イエスは弟子たちに、御自分が死に対する解放者(救い主)であることを約束されました。死は破壊的な力を持って私たち人間の人格の中に侵入し、イエスからも神からも私たちを遠ざけます。私たちを、神を神とも思わず、隣人を隣人とも思わず、的を外した人間として自己中心的な人間にするのです。創世記の人間創造物語では、神が人間を男と女に造ったのは、他者と共に生きる私たちの人生において、私たちが互いに愛し合うことによって、人間が神の愛を生きるためでした。それが、神がこれだけは食べてはならないと言われた善悪の木の実を食べて、最初の人間アダムとイブは、お互いに責任転嫁をし合ってしまうのです。それが、聖書における死が私たち人間の中に侵入してきた最初の証左なのです。

 

パウロは、「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)と言っています。死は、私たちが神をないがしろにして、自ら神のようになろうとうる的外れな生き方から私たちの中に入ってくるのです。そのような私たちが、「生きているパン」である、「世に生命を与える私(イエス)の肉」食べるならば、死の支配から解放されて、命に生かされて生きるようになると、イエスは言うのです。

 

しかし、私たちが命に生かされるということは、自然の姿をもった私たちの肉体が死から解放されたと言うわけではありません。死からの解放は信仰の出来事です。私たちはイエスと一体になることによって、イエスが私たちの中に死が侵入しないように、私たちを守って下さるのです。<しかし、イエスはどのようにして、私たちを死から守り、永遠のいのちの与え主となられるのでしょうか。どのようにして私たちは、彼を、「食べる」ことができ、またイエスが私たちの中に、その生かす力をもってはいってくるように、イエスとの交わりをもつことができるのでしょうか。そのことをイエスは、(今日の箇所で)御自身の死(十字架)こそが私たちに救いを与える力であると語ることによって説き明かされた>のです。

 

ユダヤ人たちは、イエスに対して、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(6章42節)とつぶやきました。このことは、ユダヤ人たちが、イエス人間性に躓いたことを意味します。イエスが天から降って来た命のパンであることと、自分たちがその父と母を知っているイエス人間性とが、ユダヤ人たちには結びつかなかったのです。それにも拘わらず、イエスは<まさにこの彼の「肉」、あらゆる人間性・人間的体験をになった人間のからだこそ、この世にいのちを与え、死を取り除くものである>ことを語ります。このような人間性にもかかわらずではなく、むしろナザレのイエスというその人間性のゆえに、それを通して、イエスはいのちのパンなのである、と言うのです。

 

このような言葉は、聴衆を完全にイエスから離れさせてしまいました。

 

52-54節:

「それでユダヤ人たちは互いに争って、言った、「どうしてこの者が〔自分〕の

肉を我々が食べるために与えることができようか」。それで彼らにイエスが言っ

た、「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ、人の子の肉を食べ、その血を飲まなけ

れば、汝らは自分のうちに生命を持つことはない。私の肉を食い、私の地を飲む

者は永遠の生命を持つ。私はその者を終りの日に復活させるであろう」(52-

54節、田川訳)。

 

エスの言葉は、聴衆にただ反感をもたせ、つまずきを与えたかに見えましたが、イエスは、「人は、イエスの肉を食べ、その血を飲むことによって生きる。そしてそれを食べず、飲まない者は、自分のうちにいのちをもたないで、かえって死に渡されることは、確実である」と言ってゆずりませんでした。

 

エスは、ただ単に御自身のからだを指し示したにとどまらず、はっきりと、御自身の血をも示すことによって、すでに肉を与えることで暗示しているもの、すなわち、イエスは御自身の死について語っていることを、いっそう明らかにされます。イエスは、御自分の人間性につまずく人びとに、御自身の死(十字架)を示されたのです。イエスのからだと血を捧げる十字架から、神がイエスに与えるすべての人を生かすいのちが出てくると言うのです。そうすることによって、イエスはいのちのパンになられたのだと。もちろん、イエスの死によっても、その「肉を食べ。「血を飲む」ことをしない人は、イエスの命に与かることはできません。ただイエスの父なる神自身がイエスへの信仰をその人の中に働かせて下さった人のみが、イエスといつまでも結ばれるのです。

 

エスは、ただ単に御自身が肉と血を捧げられたことばかりでなく、イエスを信ずる者が、それを食べ、飲み、それによっていのちに至ることをも、はっきりと証しされます。そうすることで、イエスは弟子たちを、御自身の肉と血がささげられた十字架の恵みへと導いているのです。彼らがそれを見過ごすことはゆるされません。イエスの十字架にかけられたからだ、その流された血は、常に信じる者たちにとって、その信仰を打ち建てる恵みの業であり、たえず救いの手段でありつづけます。彼らは、イエスの肉と血を神から与えられた、正しい栄養物として評価し、取り扱い、それに向かって手を伸ばし、自分のうちに取りいれ、保ちつづけなければなりません。ただそうすることによってのみ、いのちは、彼らのものとなるのである。

 

けれども、イエスが御自身をパンと呼んだ時と全く同じように、「食べる」・「飲む」ということにも比喩があることは明らかです。イエスは、カファルナウムの会堂に立たれ、のちに十字架の木にかけられた肉〔体〕について語り、カファルナウムにおいて御自身の生の自然的な根拠として御自分の体内に流れ、のちに十字架の上で流された血について語られました。それをイエスは、誰の口にも与えませんでした。私たちは彼の肉と血を扱うのは、かみくだき、飲みこむことではなく、むしろ、私たちが、イエスの十字架につけられたからだ、流された血を、私たちの生の根拠と認識し、そこに信仰と望みとをかけ、そこから私たちの思考と意志を取ってくることなのです。その人の求めが十字架につけられたお方に向かうならば、そこで木にかけられたからだ、そこで流された血のゆえに、今日もなお、永遠に神の恵みがその人に与えられのです。その恵みは、私たちの全生活を捕え、私たちに死ではなく命を与え、私たちをキリストのものとし、生かしてくれるのです。こうして、イエスの肉と血は私たちの中にはいって、「食べられ」「飲まれ」、まことの食物として私たちと一体となるのです。

 

これらの「肉を食べ」「血を飲む」という言葉は、明らかに聖餐式を暗示させます。けれども、シュラッターは、「これは単に聖晩餐(聖餐式)に対するほのかな預言以上のものである。それはむしろ、十字架の全行為へと発展してゆく、イエスの救い主としての意志を私たちに記したものである」と言って、このように記しています。「イエスは、パンとぶどう酒によって、御自身のからだと血とを遺産として弟子たちに渡した、あの受難の夜にも、ここで発言しているのと全く同じ確信から行動されたのである。イエスは、ここで語っているように、その死において救い主の行為を認識し、そのからだによって真実のパンを、その血によって真実の飲み物を認識したゆえに、最後の晩餐でパンと杯を弟子たちに与えるにあたって、それによってからだと血とを食べさせるのだと説き明かされた。それだから、イエスの教会はあのパンを食べあの杯を飲んで、イエスのからだと血とにあずかるのである。イエスは、ここで発言しておられるのと同じ救い主としての意志を、この晩餐の食事によって、行為をもって告げ知らせ、そうすることによって特に、御自身の十字架につけられたからだと流された血を、恵みの根拠として、明らかに、鋭く、私たちに突きつける、そうして、イエスは、ここで私たちに行なうよう命じていること、すなわち、「イエスの肉を食べ」、「イエスの血を飲む」ことを、とりわけ力強く行なうよう、私たちを助け、しかもその十字架の御業の祝福の中に感謝をもって立ち、その死の実りを信仰をもって求め、受け取るよう支えられるのである」(シュラッター)。

 

55―56節:

「私の肉は真の食べ物であり、そして私の血は真の飲み物であるからである。私の肉を食い、わたしの血を飲む者は、私のうちにとどまり、私もまたその者のうちにとどまる」(田川訳)。

 

私たちが、十字架の中に恵みを捕え、死なんとするキリストの中に救い主を認めるならば、その時、私たちをキリストのところに捕え、キリストを私たちのところにとどまらせる結びつきが、そこに生まれます。その結びつきは、私たちを担うお方の中に、私たちを移し、そのお方を私たちのもとにもたらすものです。こうしてキリストは、私たちの中に現臨し、私たちを御自身の御心に従って形成し、動かすのです。キリストは自らの地上につけるものを捧げ、捨てることによって、あらゆる自然的わくを越えて高められた内的な現臨を私たちのもとに得て下さいます。それは、私たちの生の根底において、私たちをキリストと結び、いつまでも結びつけて下さるのです。こうして、御子と御父の間に原型として存するものが、模写として繰り返されるのです。

 

57-58節:

「生ける父が私を遣わしたように、私もまた父のために生きている。そして私を食う者は、私のために生きるであろう。これは天から下って来たパンである。父祖たちが食べて死んだよう(なもの)ではない。このパンを食う者は永遠に生きるであろう」(田川訳)。

 

「御父との交わりによって、御子はいのちを得る。それゆえ、御子は、ただ単に死に至るまで人間と交わることによっていのちを人間に与えるのみならず、十字架によってその死によって与える肉と血から、新しくいのちを造り、完成する。今、彼らのため、死を越えて高められ完全な救いへと導かれる」。

 

死の支配の闇が深く感じられる日々にあって、命のパンであるイエスの肉を食べ、血を飲むことによって、イエスと一体となって、死ではなく命の輝きを生きる者でありたいと願います。

 

主が私たちをそのような者に導いてくださいますように!

 

 (この説教は、ほぼシュラッターによっています。)

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、私たちをイエスと一体となって、死ではなく命を生きる者にしてください。今私たちが生きるこの日本は既に「戦中」と言われるくらい、命ではなく死が隅々にまで支配しているかのような状態に感じられます。その中にあっても、命を大切に生きている人に、神さま力を与えてください。私たちも命を大切にされたイエスに倣って、生きていくことができますようにお導きください。
  • 戦争や気候変動や経済格差によって死が世界に広がっています。どうか私たちを平和と自然と他者との共生に導いてください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩     288(恵みにかがやき)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-288.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。