なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

力には力を?

・2月12日の日曜日夜から会議があって出かけました。そのためこの日記も数日空いてしまいました。それまではちょっとむきになって毎日書いていたのですが、ちょうどよい一休みが与えられという感じです。また、気持ちを新たにして書いていきたいと思います。

・さて、今日は教会で聖書を学ぶ会があり、ユダヤ人の先祖であるイスラエル民族に、はじめて生まれた王様であるサウル王の記事を扱いました。このサウル王は、イスラエルの民の側からの希望で生まれた王様です。その直接的な理由は、自分たちを武力で脅かすペリシテ人に対抗するためには、自分たちにも王様がいてくれた方がいい、というイスラエルの民の判断です。

・「力には力を!」は、確かに現実的な考え方です。黒澤明の「七人の侍」でも、よく盗賊に襲われる村人が、流れ者の用心棒を雇い、一緒になって盗賊を撃退するというストーリーでした。村人たけでは撃退できなかった盗賊を、用心棒に手伝ってもらって撃退できたのですから、「力の効用」はたいしたものです。

・でも、七人の侍では、戦いで何人かの用心棒が命を落としますが、盗賊との戦いに勝利したら、生き残った用心棒はその村から去って行きました(かっこいい!)。でも、もしかしたら、用心棒が村にいつまでも住み着いて、いつの間にか村人を支配するようになったかもしれません。絶対にその可能性が無かったとは言えません。ですから、力に頼るということは、村人にとっては諸刃の剣です。

・本当は、村人がみんなで助け合って、盗賊に対抗し、盗賊を追い出すことができれば、それが最高です。なかなかうまくいかないものです。イスラエル民族の歴史は、この葛藤の歴史と言っても過言ではないでしょう。

・さてイエスは、剣を持たず、体一つで生きた方です。非暴力抵抗? 全くそうとは言えませんが、イエスはそれに近かったのではないでしょうか? イエスは政治的な暴力に、最後は敗北します(十字架刑)。力によって逆らいはしません。でも、イエスはその暴力を容認したわけでは、もちろんありません。イエスは十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びながら、悶絶死しました。

・この十字架死のイエスは、力による敗北とも見えますが、無力なまま力を頼らずに、力を無化する命の輝きを響かせているのではないでしょうか。