なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

空の空

旧約聖書のコヘレトの言葉(新共同訳聖書、口語訳聖書では「伝道の書」。コヘレトは「集会を召集する者」あるいは「集会の中で語る者」を意味する単語)には、冒頭に「コヘレトは言う。/なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」(1章2節)という言葉が出てくる。口語訳では確か「空の空、空の空、いっさいは空である」と訳されていたと思う。

何とも言えない空しさ、それは我々も日常の機械的な営みが途絶えて、ふと孤独な時間にめぐり合うときに感じるのではないだろうか。

しかし、この虚無感は、存在の不確かさとは違うように思われる。少年が野宿者を襲撃するのは、野宿者の体を踏みつけて野宿者の骨が折れる音を聞いて、自分の存在を確認しているのではなか、と言う人がいる。また、若い女性がリストカットするのも、そうすることによって自分の存在の確かさを確認するのではないかと。

そのような若者には、小さいときから自分の存在が無条件に受容される経験が極めて乏しいのであろう。

このコヘレトの空しさは、そのような現代の少年少女に見られる存在の不確かさとは違うようである。

コヘレトの言葉の中には、「神のなさることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなさるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」(口語訳、3章10,11節)という言葉もある。

コヘレトの語る空しさは、必ずしもマイナスとして言われているのではないように思う。むしろ、冨や名誉などという幻想に引きずり回されている人よりも、人間としての空しさをありのままに認めるところから、何かが始まるのではないか。そう語っているように思える。

「わたしは知っている。人はその生きながられている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である」(口語訳、3章12,13節)とも言われている。

食べて、飲んで、寝て、遊ぶ。人間にはこれ以上のことはないと言ってた人がいたことを思い出した。