なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

生き抜く力

昨日は冷たい雨が降る日曜日だった。私は教会の礼拝が終わってから、しばらくして相模原市東林間まででかけた。小田急東林間駅から15分ほど歩いたところにある教会で集会があったからである。

東林間の大和よりが中央林間である。たしかその中央林間に、私が小学校の4年生の頃に、担任の先生の家があって、友達と遊びに来たことがあった。1951年の頃だったと思う。まだ戦後6年目で、世の中全体が敗戦後の貧しさを抜け出せていなかった時である。私は、横浜市西区浅間台というところにいて、その近くの小学校に通っていた。その小学校は、横浜駅西口から歩いて15分くらいで、三ツ沢公園の上がり口をちょっと入った所にある。

先生は男の人で、青木という苗字だったように記憶している。がっちりしていて、顔が大きく、余り表情の変化のない、静かで、厳しい感じだった。招かれて先生の家に行ったのか、こちらから押しかけて行ったのかは忘れてしまった。とにかく、横浜駅から相鉄線に乗って、大和で乗り換えて中央林間に行ったように思う。

その頃の中央林間は、そんなに家もなかった。先生の家は、それほど大きくはなく、同じような一軒家がいくつかあった、その一つだったように思う。今でも鮮明に覚えているのは、先生の家には檻に入っていた猿がいたことである。普通の家に猿がいるのは大変めずらしかったので、よく覚えている。

この時は小学校4年生だったが、1,2年の担任の先生の家にも、3年の担任の先生の家にも、5,6年の担任の先生の家にも、遊びに行ったことがある。どの学年の先生も、僕たち小学生のやんちゃが子どもたちを大切にしてくれていたように思う。

最近の子どもたちは、核家族で家族の人数も少なく、学校でも学校という競争社会の中で心身をリラックスできずに、緊張した生活を強いられているのではないだろうか。安心して、緊張を解いて、ありのままの自分が受け止められていると感じることもすくないのではないだろうか。

小さい時から、まわりの人から受け容れられて、自分の存在がみんなに喜ばれていることを、自分の体で感じられる子は、どんなに厳しくとも生き抜いていく力が与えられていると思う。ある人によれば、生まれてきてからの一年、徹底的に受容された子どもは、大きくなって困難にぶつかっても、それを必ず乗り越えていけると言う。私もそのように思う。

親や周りの大人は、子どもを教育する以前に、子どもを徹底的に受容することが必要ではないか。人は愛されて、自分も人を愛することが出来るようになれるからである。