なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

身体の痛み

日曜日に東林間にある教会に行った帰り、雨が大分降っていたので、戸塚に車で帰る方に乗せてもらって東戸塚の駅で降りた。後ろに車が来ていたので、あわてたためだろう。車から降りるとき、ドアを閉めたが、自分の右手人差し指を挟んでしまった。すぐ爪が黒くなってきたので、内出血をしていることが分かった。

外部への出血はなかった。耐えられない痛みではなかったし、日曜日でもあり、すでに午後6時を過ぎていたので、医者には行かずにおくことにした。その日の夜寝床に着くころから痛み出し、夜中に起きてシップをした。その夜は自分ではうとうとして寝られなかった。しかし、朝になって起きてから、妻には、声をかけても寝ていたわよ、と言われてしまった。自己診断では、骨には異常がないようなので、このままシップでなおそうと決めた。

誰でも同じかもしれないが、私は、痛みに弱い。今まで私が経験した痛みで最もつらかったのは、二十歳の頃、盲腸の手遅れから、腸閉塞になったときである。夜大学病院に運ばれて、盲腸の手術をしていただいた。1週間位で退院できたが、すでに退院するときには余りガスが出なかった。その状態を医者に言ったが、医者は退院していいというので、退院した。ところが、数日してからお腹が痛み出し、そのうち痛みが全身に広がったように感じた。しかも突き刺すような痛みで、背中をさすってもらっても、姿勢を変えてもらっても、痛みは弱まらない。

そして再入院し、腸閉塞の手術を受けた。幸い回復し、その時に結構多く輸血したが、現在まで肝硬変になることもなく、健康に過ごしている。

ちょうど今読んでいる本の中に、身体についてこう書かれている。「ある意味で、私の身体ほど私に「疎遠」なものはない。・・・生の基本構造は、それが意識されないことで円滑に進行してゆく。身体の存在が忘却されて、私はすぐれて私の身体となる。意識することなしに呼吸も瞬きもかなわず、歩行することもできなくなるとき、ひとはもはや円滑に生をおくることができない」(熊野純彦『差異と隔たり』76頁)と。

今私は右手の人差し指の先が痛む。私はその痛みによって、自分の身体を意識し、いささか生の円滑な進行が妨げられている。特に字を書くときに困る。意識しないで円滑に生きることができる身体を与えられていることに、私たちはもっともっと感謝しなければならないのではないか。指の痛みによって、私は、そのことに気づかされている。

3月1日から教会の暦ではレント(受難節)に入る。イエスの受難と十字架死を思い巡らすときである。十字架刑は酷い処刑方法である。手首や足首を釘で打ち付けられたのだろうか。イエスは身体の激しい痛みに耐えたことだろう。